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運命列車
平成24年11月28日(水)
長野市の講演は三時半に終りました。帰りのチケットは自由席でしたが、「特急しなの」は長野が始発です。四時発の列車を見送ったばかりのプラットホームに人影はありませんでした。次の列車まで一時間…。待てば必ず座れます。私は天ぷらそばで体を温めて自由席の乗車位置に立ちました。そこにあの忌まわしいアナウンスが入ったのです。
「特急しなの号で名古屋方面にお出かけのお客様にご案内致します。村井駅で発生した人身事故のため、特急しなの号は、ただ今、塩尻駅で停止しており、運転再開の目途は立っていません。繰り返します。十七時発名古屋行き特急しなの号は,村井駅で発生した人身事故のため運転を見合わせております」
またしても現代の川止めの報せでした。しかも目途が立たないと言っています。途方に暮れる私に若い駅員が近づいて、
「あの…お客様、運転を再開しても、塩尻から列車が到着するのに一時間ほどかかります。ホームは寒いですから、よかったら階段下の待合室でお待ち下さい」
運転を再開するときはお知らせしますから…と最近のJRにしては珍しく親切に声をかけてくれました。何があったのですかと尋ねると、駅で起きた人身事故ですからね…と飛び込み自殺をほのめかし、
「単線は後始末が終るまで上下線とも不通になるのです。お急ぎのところ誠に申し訳ありません」
マイクを手に本来の構内アナウンスの業務に戻りました。後始末という無機質な言葉の背後に、線路の周辺にうずくまって黙々と作業をする人々の姿が影絵のようにうごめきました。突然大切な人の死を知らされて泣き崩れる家族の顔が浮かびました。近づいて来る列車目がけてプラットホームから身を投げる人の絶望が胸に迫りました。年の瀬がすぐそこまでやって来ているのでした。
駅員が教えてくれた階段下の小さな待合室には、三つしかない椅子の真ん中を空けて、黒いコートのサラリーマン風の男性が二人、憂鬱な顔で座っていました。無言で間に入るのも気が引けて、
「飛び込み自殺だそうですよ。迷惑な話しですねえ…」
と、声をかけながら腰を下ろしましたが、一人は手元のアイフォンの画面から目を離さず、もう一人は聞こえない振りをして、私は完全に無視されました。仕方なくしばらくは文庫本を読んでいましたが、何ページも進まないうちに目が疲れました。運転を再開するときは知らせると駅員が言っていました。再開しても列車が長野に着くまでにさらに一時間かかるとも言っていました。目を閉じて、いつの間にかうとうとしてしまった私は、
「ただ今、特急しなの号は塩尻駅を出ました」
というアナウンスで目を覚まし、さあ、あと一時間…コーヒーでも買おうかと待合室を出て我が目を疑いました。プラットホームには、自由席の乗車位置を先頭に、まるで万博かディズニーランドのように,長蛇の列ができていました。最後尾に並んだのでは座るどころか車両に乗ることすらできそうにありません。おれは四時過ぎからプラットホームに来ていたんだぞ…という子供のような自負が事態に対する納得を拒んでいました。人ごみの中に先般の駅員を見つけた私は、
「寒いから待合室で待つように勧められた者ですが、階段下からはプラットホームが見えなくて、アナウンスを聞いて出てみるとこの混雑です。指定席を取ることはできませんか?」
あのままホームにいれば一番に乗れたんだぞ、という遠まわしな非難を言外に匂わせたつもりでしたが、
「申し訳ございません。指定席はここでは扱えませんので、列車にお乗りになってから車掌にお尋ね下さい」
駅員は私の状況に同情する気配も見せないで人混みに消えました。並ぶしかないことは分かっていても、最後尾に加わる絶望はどうしても受け入れ難く、私はプラットホームのベンチに腰を下ろして空しく列車を待ちました。周囲では家路を急ぐ人の群れが、それぞれ携帯電話で誰かと連絡を取っています。一人ひとりに帰るべき家があり、一人ひとりに連絡すべき事情があるのです。ひょっとするとあの若い駅員だって、恋人との約束を反故にして突然の時間外業務に従事しているのかも知れません。その時私は、たった一人の人間の存在が、計り知れない人々の運命と深く関わっていることの典型を見ているのでした。
十八時五十分に長野駅に到着した特急しなの号は、大勢の乗客をプラットホームの寒風にさらしたままで車内清掃を始めました。掃除なんかどうでもいいから早く乗せろよ!という無言の抗議が人々の顔に浮かんでいました。清掃が終わると私は咄嗟に隣接する指定席車両のドアーから乗り込んで、たまたま並んで空いていた一番隅の窓側の席に座りました。やがて自由席の車両からあふれた乗客が通路になだれ込み、
「ここ、いいですか?」
中年の女性が私に聞きました。座ってもいいかと尋ねるということは、彼女も指定券を持ってはいないのです。私は仲間が現れたように心強くて、
「こんな時ですから、誰か来るまでは座っていても構わないんじゃないですか?実は私も指定券持っていないのですよ」
鷹揚に答えながら、心の中で座席の予約者が現れないことを祈りました。
列車が動き始めてしばらくすると、
「列車大変込み合いましてご迷惑をおかけしています。車内販売は篠ノ井から乗車して皆様の座席まで参りますので、どうぞご利用下さい」
車内アナウンスが響きました。
「通路まで乗客があふれているのに、いったいどうやってワゴンを通すんだよ!」
こんな状況でもマニュアル通りに放送を流すJRの無神経さに乗客たちは再び苛立ちの表情を浮かべました。それにしても、指定券を持たないで指定座席に座っている居心地の悪さはどうでしょう。目の前で立っているお年寄りに対する後ろめたさはどうでしょう。私は不正に指定席を占有しているのです。どうぞお座り下さいとは言えません…と、そこへ車掌が通りかかりました。万に一つの可能性に賭けて指定券を申し込むと、車掌は困ったような顔で何やら調べていましたが、
「ええっと、四号車に一つだけ空いていますね」
料金と引き換えに黒い箱から座席番号を印字したオレンジ色の紙を打ち出してくれました。四号車に移動すると、自由席の混雑が嘘のように空いていました。ところが探し当てた座席には髪の長い女性が座っています。
「ん?」
私が紙の番号と座席番号を照合しようとすると、それより早く、
「あ、済みません、今、移りますから…」
女性はそそくさと席を立って別の座席に座りました。つまり、彼女も座席指定券は持っていないのでした。ということは…。私の頭の中で日頃使わない推理の脳が突然フル回転で動き始めました。ダイヤは大幅に乱れています。座席指定というシステムが正常に機能しているとは思えません。別の手段で目的地に移動した人もいるでしょう。移動をあきらめた人もいるはずです。次の列車の乗客も乗り込んでいるに違いありません。してみると、列車は今や無秩序状態なのです。無秩序と分かったとたん、目の前の世界がガラリと変わりました。乗客の大半は座席指定券など持っていないのではないでしょうか。あの人もこの人も、本来の予約客が現れるまでは、とりあえず座っていようと考えている人々のように思えて来たのです。検札が来たらどうするつもりだろうと思いましたが、検札など来ないのです。来れば大混乱になるのは容易に想像がつきます。
「え?指定券?一時間以上遅れてるんだぞ。次の列車なんか待ってたら予定の新幹線に乗れないだろうが」
「おい、これだけ遅れておいて特急券見せろはないだろう。特急券を払い戻してもらいたいくらいだぜ」
そして予想通り、千種に着くまでの間、座席指定券はもとより特急券や乗車券すら、ただの一度も検札に来ることはなかったのです。
これが世の中だと思いました。
正直に自由席で立ち尽くす乗客、特急券すら持たないで指定席車両に座っている乗客、罪悪感に耐え切れずに車内で指定券を購入した乗客が、見分けのつかない顔をして一つ列車に同乗しています。普段なら気づくこともない様々な人の在りようを、無秩序という舞台で浮き彫りにして、列車は終着駅に向かっているのでした。
終