特派員報告6
JHO・DAIGIN

平成24年01月19日(木)

 お正月に友人の家に招待されて奇妙なものを見ました。大小の丸いお餅を二つ重ねた上にミカンを乗せたものが、床の間や神棚や仏壇や台所に飾ってあるのです。

「何ですか?これ」

「鏡餅と言って、お正月の飾りですよ」

「ガガミモチって、普通のお餅と違うんですか?」

「いえ、普通のお餅ですが、お正月に飾るときは昔から鏡餅って言うんです」

「どんな意味があるのですか?」

「お、おめでたいんですよ…風習です」

 どうしておめでたいんですか?

 なぜミカンを乗せるんですか?

 いつ頃からはじまった風習ですか?

 飾らないと縁起が悪いのですか?

 疑問はたくさんありましたが、友人の目は明らかにうろたえていました。奥さんはそそくさと台所に姿を消しました。きっと二人とも知らないのです。

 どこの国にも意味がわからないまま行われている風習はありますから、それには触れないで、お節とお雑煮と、日本酒を頂いたあと、ハツモウデに誘われました。

「ハツモウデって?」

「神社に一年の幸せをお願いに行くのです」

「教会のようなものですか?」

「まあ、そんな感じですね」

 日本人は無神論者だと聞いていましたが、認識を改めなくてはなりませんでした。神社に続く参道には、びっくりするくらいたくさんの人が列をなし、およそ宗教とは無縁のように見える今ふうの若者も、敬虔な面持ちで石の門をくぐって行きます。門といっても二本の高い柱の上部に、長さの違うやはり二本の柱が、長い方を上に少し間をあけて架け渡してあるだけの簡素なもので、架け渡した柱の両端は、乾燥した稲の茎をより合わせたロープで結んであります。そしてロープのより目には一定の間隔で独特な形状の白い紙が挟まれているのです。

「この門は何ですか?」

「鳥居です」

「鳥居って?」

「門の名前ですよ」

「あのロープは?」

「しめなわです」

「鋏んである紙は?」

 質問には答えないで、

「こちらで口をすすいで下さいね」

 友人は話題を変えて玉砂利を先に進みました。私はそれぞれの名前ではなくて、意味を知りたいのですが、友人には答えられないのです。

 拝殿と呼ばれる建物の前には大きな箱が据え付けられていて、押し寄せる参拝者は、何がしかのおカネを箱に投げ入れると、二度拍手をして祈りを捧げ、一礼して帰って行きます。神父や牧師に相当する人の説教もなければ、讃美歌のような歌もありません。あんなに長い時間をかけてたどりついた神前だというのに、礼拝の時間はわずか一分間もありません。まるでたどり着いただけで目的を達したかのように、みんなそそくさと帰って行くのです。日本人はいったい何に祈っているのか知りたくて拝殿の奥に目を凝らしましたが、如来やキリストの偶像は見当たりません。しかし、はるか奥まった神殿の中に丸い鏡のようなものが飾ってあるのをつけたとき、あるアイデアかひらめきました。

 カガミモチも鏡、ご神体も鏡…。鏡は自分を映し出すもの…ということは、日本人は自分の内部に神聖なものの存在を信じているのではないでしょうか。日常の媚びやかけひきですっかり曇ってしまった本来の神聖な人間性を、新年に当たって、丸い餅を鏡に例えたり、神殿の鏡に手を合わせたりして思い出そうとしているのかも知れません。

「ではありませんか?」

 と友人に聞くと、意外な答えが返って来ました。

「考えすぎですよ。鏡は、天照大神、つまり太陽神の象徴だと聞いています。鏡に限らず石だったり、木の根だったり、ご神体は神社によって様々ですが、人間はご神体を決して見てはいけないことになっています。でもみんなご神体なんて気にしていないと思いますよ」

 ご神体を気にしないで、これだけの人々がハツモウデに殺到しています。

 日本人は無神論ではなさそうですが、宗教観という意味ではよくわからない民族のようですね。