雨の高知

平成30年09月14日(金)

 高知県の町から講演依頼がありました。

 高校時代から坂本竜馬…というより、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が好きで、小説に出てくる竜馬ゆかりの地名を拾い出し、大学時代に単身で探訪の旅をした私としては、会場があこがれの高知と聞いて、一も二もなくお引き受けしました。

 時間的に前泊が必要というので、高知にお昼近くに着くように主催者にお願いしました。午後から翌朝まで自由な時間があれば、新装成った桂浜の竜馬記念館の見学をし、城下に戻って大好きな「ひろめ市場」で土佐の酒を楽しむには十分です。

 天候でやきもきする空路を避けても、岡山で新幹線から特急「南風」に乗り継げば、高知は名古屋から四時間半程度の移動時間です。ところが開催日が近づくにつれて四国地方は断続的に大雨が降り、特急列車の運行が危ぶまれました。大事を取った主催者からは、岡山発の高速バスのチケットが送られて来ました。調べると、到着時間は特急「南風」と大差はありません。それにしても何と慎重な…と思いきや、主催者の心配は的中し、出発日の高知付近は記録的な大雨で、特急列車は運休になりました。しかも少し前に四国を襲った台風で、高速道路の橋が破損したため、バスは一部区間、一般道を走るというのです。

「高速道路が一部不通となっている関係で、当バスは高知駅に一時間以上遅れて到着する予定です。皆様にはご大変迷惑をおかけしますが、ご理解頂きますようお願い申し上げます」

 運転手のアナウンスを聞きながら、四国大橋を渡りましたが、瀬戸内海は降りしきる雨で何も見えません…と、そのとき携帯電話が震えて、主催者からメッセージが入りました。

『明日の講演会は雨のため延期になりました。先生には予定したホテルで一泊して観光されても、本日中に名古屋に戻られても構いませんので適宜ご判断下さい』

 主目的を失って、さあ判断せよと言われても、ノンストップでひた走るバスの中、私はとにかく高知まで行くしかありません。

 やがてバスは一般道に下り、大歩危、小歩危という断崖絶壁を走り始めました。窓際の座席から見下ろすと、目もくらむ眼下に、茶色に増水した濁流が、凄まじい勢いで吉野川をうねり下っています。バスは路肩すれすれを走るのですが、崖は切り立っていてガードレールの外側に地面は見えません。ひょっとすると崖はえぐれていて、車輪の下は空洞かも知れないのです。

 脳にはこういうとき、不安を掻き立てる部位があるのでしょうか。雨でゆるんだ地盤が崩れ、真っ逆さまに転落するバスの姿が浮かびます。静まり返った車内に、せわしなく往復するワイパーの音だけが、不吉な瞬間への秒読みのように時を刻みます…と、バスが突然止まりました。バスは止まったまま動く気配がありません。フロントガラス越しに前方を見ると、狭い道路に乗用車やトラックが連なって先頭が見えません。しばらくは対向車ばかりが盛んにすれ違っていましたが、その流れがピタリと途絶えると、やがて後方からけたたましいサイレンが近づいて、パトカーと救急車が追い抜いて行きました。

「お急ぎのところ申し訳ありません。ただいま渋滞で停止しています。救急車が向かったところを見ると事故ではないかと思われますが、しばらくこのままでお待ち下さい」

 事情が分かっても気持は穏やかにはなりませんでした。

「雨の中、断崖絶壁で停止しておりますが、このような雨は過去に何度もございました。路肩は決して崩れるようなことはございませんので安心して今しばらくお待ちください」

 運転手にはそうアナウンスしてもらいたかったのです。

 二十分以上が経過してバスはようやくのろのろと動き始めました。しばらく走った駐車スペースに、前半分が無惨につぶれた軽自動車の屋根が激しく雨しぶきを上げていました。運転していた人は大怪我をして、救急車で先を走っているのでしょう。不幸は至る所で見えない口を開けています。救急車に乗っているのが私であっても何の不思議もないのです。さらに一か所、事故渋滞で停止して、二時間半で着くはずの高知駅に四時間近くかかって着きました。