軌道修正

 珍しく十時前に浮かない顔で帰って来た石原陽介は、熱でもあるのではないかと心配をする妻の春美にしんみりとこう言った。

「とうとう今日、田辺が会社を辞めたんだよ」

「田辺って、あの田辺さん?」

 同期の中では一番の出世頭で、確か昨年の夏に海で二人の子どもを同時に亡くしてからというもの、ショックで寝込んでしまった妻を抱えて苦労しているという噂を春美も以前に聞いたことがある。

「しばらくは九州のお母さんが面倒をみてくれたけど、共働きの長男夫婦の子どもの世話をいつまでも放っておくわけにはいかなくて、お母さんが実家に帰ってからは、結局田辺が奥さんの看病と家の中のこと一切をやっていた。典型的な仕事人間で、家事とは全く縁のなかった田辺にとって、昼間は奥さんの様子を覗いてくれて、夜は時々夕食のお裾分けを届けてくれるご近所の存在がどんなに有り難いものだったか。そういえばあいつ、しみじみつぶやいてたなあ…おれはそれまで近所の人の名前すら知らなかったって」

「猛烈に働いて、なのに全てを無くしちゃったのね」

「おれも少しずつ軌道修正しなきゃあな」

「え?」

「仕事仕事で近所との付き合いはない。家事だって何一つできやしない。家族のために働くということは、家族との『生活』を大事にするということなんだ。ようし!家庭人間に変身する手始めに、今度の日曜日は久しぶりに家族でピクニックにでも出かけるぞ」

「あら、ゴルフは?」

「まずその辺りから軌道修正だよ」

「それじゃあ日曜の朝は早起きして子どもたちも一緒にお弁当づくりね、勿論あなたもよ」

「わかった」

 二人が覗いた子ども部屋の二段ベッドからは、小さな寝息が二つ聞こえて来た。