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暴力教師3
四方妙子は息子の担任の突然の来訪にうろたえていた。いや、実を言うと妙子には、自分が担任の来訪にうろたえているのか、それともついさっきまで部屋にいた日比野義和からの突然の求婚にうろたえているのか判らなかった。
突然の求婚というのは当たらない。
日比野義和は、毎週金曜日にアパートに立ち寄って、正人も一緒に妙子の手料理を囲み、しばらく雑談をして帰って行くのがここしばらくの習慣になっていた。いつもなら食事を済ませて煙草を一、二本吸うと、それじゃあと立ち上がる日比野が、今日は違っていた。
「正人くん、悪いけどしばらく外に出ていてくれないか?お母さんと大切な話があるんだ」
日比野は正人にそう言うと、まっすぐに妙子を見た。戸惑ったような視線を向ける正人を妙子は目で促して部屋の外に出し、無意識にドアに鍵をかけた。自分のこれからの人生にとって重大な瞬間を迎えようとしているという予感がした。しかしそれは唐突な予感ではなかった。日比野義和との関係が、妙子の勤務する印刷会社の工場長と工員という関係以上のものに発展した時から、いつかこういう日がやって来るだろうという思いが妙子の胸で息づいていた。
「女房の三回忌も済んだし、啓子も銀行に就職して親の手を離れた。もちろん二人のことには賛成してくれている。一緒に暮らそう」
日比野がそう言った時、ドアがノックされた。
「考えておいてくれ。返事は慌てなくていい」
日比野は慌ててジャンパーを着た。
妙子はいつになく混乱していた。
当然来るべき時が来ただけのことなのに、頭を置き去りにして気持ちが勝手に昂ぶっていた。それは方向が違うだけで、十年ほど前、散々迷ったあげく、酒乱の夫と別れる決心をした時の昂ぶりに似ていた。良くも悪くも運命が大きく変わろうとする節目に直面した人間が感じる興奮に違いなかった。
「こんばんは!大手門中学の尾崎です。お留守ですか?」
という声にわれに返った妙子がドアの鍵を開けると、日比野の出て行った通路に背広姿の長身の男が立っていた。
「あの、済みません。お客様だったものですから…」
妙子は、息子が外にいて部屋には鍵がかかっているという異常な事態を何とかとりつくろおうと懸命だった。とにかく大急ぎで食卓の上を片付けて、
「どうぞお上がり下さい、散らかしてますが」
それまで日比野が座っていた座布団を慌てて裏返した。
「連絡もしないでお伺いして申し訳ありません。尾崎です。ご迷惑ではなかったですか?」
俊介は自分の軽率さを後悔しながら正座した。いくら担任の教師とはいえ、いきなりの訪問は母子家庭を訪れる時のマナーではなかった。妙子はそれには答えずに台所でお茶を入れ、
「狭いので驚かれたでしょう?どうぞ粗茶ですが」
食卓をはさんで俊介と向かい合った。
意志の強さを示すきりっと結んだ口元とは対照的に、大きく見開いた黒目がちの瞳が情のもろさを表している。
「あの、正人が何か…」
妙子はドアの近くで突っ立ったままボタンをいじっている正人を心配そうに見た。
俊介は出されたお茶をひと口すすった後で、
「こんなことを申し上げるのは担任としては誠に恥ずかしい限りなのですが、正人くんがクラスでいじめの対象になっているのではないかということに今日初めて気がついたのです。そこでお母さんは何かご存知ではないかと思いまして…」
率直に切り出した。
「まあ、正人がいじめに!」
妙子は大声を出した。
感情の動きにつれて表情が鮮やかに変化する。それがこの人の魅力なのだと俊介は思った。
「いえ、私の思い過ごしかも知れないのです。驚かせて済みません。それじゃあ家庭では変わったことはないのですね?」
「はあ、でもこの子はこの頃、私にもあまり口を利いてくれないものですから…」
妙子は顔を曇らせた。そしてしばらく黙ってうつむいていたが、やがて何かを決心したように顔を上げ、
「ご存知かも知れませんか…」
と前置きしてから玄関の正人を見た。
正人はそれだけで全てを察したように通路に出てドアを閉めた。
妙子は何もかも話してしまおうと思っていた。
正人が妙子にも口を利かなくなったのは、日比野が部屋に出入りするようになってからである。その日比野からは、ついさっき結婚を申し込まれている。もちろん妙子は日比野のことを大切に思ってはいるが、それだけで結婚に踏み切れるほど妙子は身軽ではなかった。一緒に暮らそうと日比野に言われていつになく混乱したのは、正人のことが気がかりだったのだということに、妙子は今はっきりと気がついていた。もう正人のことから目を逸らしてはいられない。正人の閉ざされた心を開く努力をもう一度してみようと妙子は思った。それまで結婚を待って欲しいと日比野に言えば、日比野はきっと理解してくれるに違いない。妙子はわざわざ正人のために家庭訪問をしてくれた尾崎俊介という長身の担任教師を信頼してみようという気になっていた。