暴力教師4

 次の日の午後、尾崎俊介は中央児童相談所の第二面接室で、石田直行という心理判定員と向かい合っていた。石田はそれが癖なのか、度の強い眼鏡をちょっと持ち上げて、

「…すると先生は正人くんの生い立ちについては昨日母親からお聞きになったわけですね?」

 背表紙に四方正人と書かれたベージュ色のファイルをあちこちとめくりながら言った。

「ええ、おおよそは…で、あの子が緘黙を指摘され始めた保育園時代から児童相談所が関わっていらしたと聞いたものですから、お話が伺えればと思いまして」

「そうですね、私が正人くんと初めて会ったのは、確か彼が年長の、そう…ここに記録がありますが、十一月二十五日です。保育所の問題児調査で上がって来たわけです」

「ああ、例の入学予定児童の中で指導上問題のある子についてあらかじめ発達上のチェックをしておくために、教育委員会が児童相談所にお願いして実施している調査ですね」

「はい。たとえば特殊学級の方がふさわしいとか養護学校レベルの能力だとかいう場合には、進学進級委員会で検討されることになっています」

「で、正人の場合は?」

「ええっと、ちょっと待ってくださいよ、確か検査をして…あ、ここです。田中ビネー式知能検査で知能指数が一〇二でした。ご存知のように知能検査は一〇〇が平均ですから、一〇二といえば能力的には全く正常範囲な訳です。つまり彼の緘黙傾向は能力的な問題ではなくて、純然たる心理的な問題であることがこれでまずお解かり頂けると思います」

「正人の能力に問題がないことは私にもテストの成績などで十分判っています。伺いたいのは正人が緘黙になった心理的な背景と、これからの対処の方法です。最初にお話ししたように、正人は最近母親ともあまり口を利かなくなっているようですし、クラスではいじめの対象になっているふしも見受けられます。担任として彼のために何ができるのか、私はそれを知りたいと思っているのです」

 俊介は、石田判定員のあまりにも順序立てた話し振りに少しいらだちを覚えていた。もっと端的に核心に触れる説明がして欲しい。

 すると、そんな俊介の気持を察したのか、石田直行はちょっと眼鏡を持ち上げてから、

「先生はこれらの絵をご覧になってどうお感じになりますか?」

 画用紙に描かれた数枚の鉛筆画を、ファイルの後ろの方から取り外して俊介の前に広げて見せた。どれもこれも描かれているのは樹木の絵ばかりで、画用紙の下には描かれた日付が記されている。その日付から判断すると、これらの絵は正人が保育園の年長から小学校の三年生にかけて、だいたい半年毎に描いたものらしい。

「バウムテストと言います」

「はあ…」

「正人くんのように自分の内面を表出しない子供の場合によく用いられる心理テストで、一本の樹を描かせることによって描いた人間の内面を探ろうという方法です。樹というものは人間の本質を表し易い題材なのですよ」

「…と言いますと、どんなふうに?」

「まあ専門的な解釈の仕方は色々ありますが、大切なのは絵から伝わってくる印象です。いかがですか?」

 石田はそういって俊介の顔を見た。

 俊介は何だか自分の方が心理テストをされているような不安な気持を感じながら、目の前の数枚の絵を見つめた。描かれた日付が新しくなるにつれて、樹の描写は確かにたくみになってはいるが、こうして並べてみると、どの絵にも共通した特徴があった。

「全体に小さくて、宙に浮いていて、何かこう健康な樹という感じではありませんね。幹が太い割には枝が極端に少なくて、葉も茂ってはいません。うまく言えませんが、頑固なくせに寂しいというか、何だか非常に孤独な印象です」

「その通りですよ、先生。それが正人くんの内面です。強烈な自我を持っている反面、それがよるべなく漂っていて、特にこの不必要に強い筆圧にはやり場のない怒りのようなものさえ感じられます。幹の部分に一様に見られる枝を払ったような切り口は、心の傷と考えてもいいでしょう。いずれにしても、かなりの心理的痛手を負った子供の絵であることに間違いありません」

「…」

「これをご覧下さい」

 石田は机の上のバウムテストを神経質そうに日付の順に片付けると、今度はファイルの裏表紙に閉じてある袋の中から、十枚ほどの写真を取り出して俊介に手渡した。

「箱庭です」

「ああ、これが」

 箱庭療法というのは俊介も知っている。

 事務机ほどの大きさで、内側を青く塗った十センチくらいの深さの箱の中に砂が入れてあり、子供は、人や家や動物や植物など、備え付けてあるあらゆるミニチュアを使って自由に箱庭を作って行く。川や海を表したければ砂を掘り、青く塗られた箱の底を利用すればいい。言葉を用いないで心の中を立体的に表現できるこの方法は、出来上がった作品を通じて作った者の内面を知ることができると同時に、表現すること自体が治療的効果を持つと言われている。

「どうですか?」

 と石田に言われるまでもなく、俊介は手に持った箱庭の写真を次々と眺めながら思わずため息をついた。何という殺伐とした風景を正人は作ったのだろう。箱のほんの片隅に、申し訳程度に動物が置かれたりはしているが、大半が水も木もない砂漠同然の景色だった。

「お判りになりましたか?」

 石田直行は言った。

「人が自分以外の人間を信頼することができるようになる原点は、母子関係なんですよ。温かく保護されていた胎内から冷たく自分を拒む外界に産み落とされた乳児にとって、初めて出会う自分以外の人間が母親であり、乳児期から幼児期にかけて母親から無条件に愛されることにより、反射的に人を愛すること、信頼することを覚えて行きます。その延長線上というか、それを基盤にして社会適応や精神的自立が達成されるのですが、正人くんの場合はやはり二歳の時に父親を失ったという事実が大きな影響を持ったのでしょうね」

「判ります。それどころか私には、その時正人の心の中に、人間に対するどうしようもない不信感が芽生えたのではないかとさえ思えるのですが」

「おっしゃるとおりです。ご存知でしょうが、正人くんの父親は、手がけていた事業に失敗して酒びたりになり、彼がまだおなかにいるうちから母親に対して暴力を振るうようになりました。正人くんが予定日よりひと月ほど早く生まれてきたのも、実は父親が妊婦の腹を蹴ったのが原因なのです。ま、そういうたぐいのことが色々とあって、結局母親は夫と別れる決心をするのですが、そんな夫のことですから慰謝料も養育費も支払われるはずはなく、生活はたちまち困窮し、母親は当時まだ二歳の正人くんを託児所に預けて働きに出ました。その頃を振り返って母親はこう述懐しています。まるで物を手渡すように子供を保育士の手に委ねて職場に向かうと、正人は保育士の腕の中から身を乗り出して私にしがみつこうとしました。私は逃げるように背を向けましたが、長く尾を引くような正人の泣き声が追いかけて来るようでした…。つまり、両親の離婚は正人くんから父親を奪っただけでなく、こういう形で母親との時間まで奪ってしまったわけです」

「それで正人くんには人を信頼する力が育たなかったわけですね?」

「ええ。しかも哀しいことに彼は母親との一体感を体験していない分だけ、より強く母親を求めています。母親の再婚相手の出現が新しい不安材料となって緘黙傾向を強める結果になったとしても少しも不思議はありません」

「なるほど…」

 俊介はうなずいた。正人の心の中で荒れ狂う真っ暗な孤独の海を見たような気がした。

「…で石田さん、担任の教師としては一体何ができるのでしょう」

「先生」

 石田は眼鏡を持ち上げてから机の上で両手を組んだ。

「緘黙は最も改善の難しい問題の一つです。かといって生涯緘黙で通した例も聞きません。私は彼を年長から小学四年生進級時まで約四年間、相談所に通わせて箱庭を中心に心理療法を続けて来ましたが、残念ながら彼を変化させることはできませんでした。つまり、そういった方法で彼を改善しようと考えるのは間違っているのだと思います。彼は今、思春期の真っ只中にいます。切り取られた治療的な空間ではなく生々しい生活の場で、彼の魂を揺さぶるような何かがあれば、ひょっとするとドラマチックに心を開く時が来るんじゃないかと、そんなことを期待しているのですがね。答えになっていないかも知れませんが」

「いえ、有難うございました。大変参考になりました」

 俊介は深々と頭を下げた。

 机の上に散らばったままの数枚の箱庭の写真が、正人の心の砂漠をさらけ出していた。

前へ次へ