- ホーム > オリジナル小説/目次 > バスジャック(老いの風景シリーズ)
バスジャック(老いの風景シリーズ)
定年後は子会社の嘱託職員として五年間勤務した。家のローンは退職金で全額を支払って身軽になった。遠方に嫁いだ長女は二人の子供の母になり、長男はこの春、家族でニューヨークに転勤した。
「結局、お前と二人きりだなあ・・・」
車窓に広がる高原の景色を眺めながら由彦がしみじみ言うと、
「・・・・・」
淑子は小さく口を開けて眠っている。
由彦は深々と溜め息をついた。
現役を退き、こうして夫婦でささやかなバスツアーに参加してみると、自分の人生など、とるに足らないものだったような気がする。働いて子供を育てて年をとった。あとは蝋燭の灯が消えるのを待つように、穏やかで退屈な毎日をやり過ごすのだとしたら寂しすぎる。
もう一度命がけで何かに立ち向かいたい・・・。そう思ったとたんに事件は起きた。
バスが揺れ、悲鳴が上がり、
「静かにしろ!」
包丁を握った若い男の声が車内の空気を引き裂いた。
「何が目的なんだ!」
と尋ねる運転手に、バスを止めろ、マスコミを呼べと、男は血走った目で命令し、
「畜生!どの職場でも辞めたければ辞めろ、君の替わりはいくらでもいると言いやがる。世間の奴らに俺の力を見せてやるんだ」
「そんなことは君、我々には関係ないだろう」
由彦の近くで勇気を振るった紳士は、
「そういう言い方がムカつくんだよ!」
その瞬間に腕から血を流して静かになった。
由彦は震えていた。
身動きができない。声が出ない。
(妻だけは守らなければ・・・)
由彦が淑子の肩を抱くと、
「何女房にしがみついてんだ!みっともねえ真似してんじゃねえ!」
男は由彦のぎりぎりの矜持までも容赦なく踏みにじった。迂闊にもズボンの前を濡らす由彦の耳に、パトカーのサイレンがひどく遠いところで聞こえていた。
終