忠犬八公とミケ

作成時期不明

 ご主人のひざの上でミケが寝ています。スヤスヤとそれは気持ちよさそうに眠っています。しかし、庭の犬小屋の中でその様子をうらやましそうに眺めている八公の心は決して穏やかではありませんでした。だってミケはチンチンもできません。お手もできません。おあずけも、お回りも、ご主人を喜ばせる芸は何一つできないだけでなく、時には呼ばれてもふり向きもせずに日向ぼっこをしているような、役立たずで不精者のネコなのです。それに引き換え八公の方は、朝は散歩のお供をし、夜は番犬として家を守り、日曜日ともなれば原っぱでご主人の投げたボールを誰よりも速く拾って来る忠実で利口者の犬ではありませんか。その八公でさえ部屋の中へは決して入れてはもらえないというのに、どういう訳かミケばかりがいつだってご主人のひざの上で幸せそうにうたた寝をしているのです。

(ひよっとするとご主人は、ボクよりもミケの方が好きなのかも知れない…)

 そう思うとハチ公の胸は悔しさと哀しさで張り裂けそうでした。

(何とかしてもっとご主人に気に入ってもらう方法はないものだろうか…)

 このところ寝ても覚めてもそんなことばかり考え続けていた八公が、ようやく一つの名案を思いついたのは、やがて木枯らしが吹き始める冬の初めのことでした。

 * * * * *

「ふう、寒い…」

 一日の仕事を終えて夕暮れの駅に下りたご主人は、思わずコートの襟を立てました。カラカラと乾いた音をたてて枯れ枝が足元を転がって行きます。まるでその音に追い立てられてでもいるかのように足早に家路を急ぐ人々の群れの中で、ふいにご主人は立ち止まりました。

「?」

 近くで聞き覚えのある犬の鳴き声が聞こえたような気がします。

(あれは確か…)

 と考える暇もなく、嬉しそうに尻尾を振って飛びついて来たのは、いつもなら家で待っているはずの八公ではありませんか。

「八公!お前迎えに来てくれたのか!」

 思いがけない出来事に、ご主人は大喜びです。八公の考えは的中しました。たった一度のお迎えでこんなに喜んでもらえるのなら、根気よく続けるうちにご主人はきっと八公のことを見直してくれるに違いありません。そうなれば、ミケに代わって今度は八公がご主人のひざを独占できるかもしれません。八公の胸は躍りました。次の日も、そのまた次の日も八公は駅へ出かけて行きました。やがて冷たい冬の雨が降り、その雨が雪になっても、せっせと駅へ通い続ける八公のことを見知らぬ人々までが、

「感心な犬ですね」

 と褒めて通るようになると、八公はもうすっかりご主人の自慢のたねになりました。

「駅でまた知らない人に声をかけられてね、八公の子供が欲しいと言うんだよ。残念ながら八公はオスだから…と言うと、それはもう気の毒なくらいがっかりしてねえ…」

 夜の食事をしながら奥さんを相手に今日もご主人の自慢話が始まりました。庭先からそっと覗くと、幸いミケの姿はありません。八公は心を決めました。縁側に足をかけました。片足と鼻先に力を入れると、思いがけないくらい簡単にガラス戸が開きました。いよいよ夢がかないます。八公はクゥクゥとと思いっきりあまえた声を出しながら、ご主人のひざに体をすり寄せました…が、そのとたん、まるで転げ落ちるようにして、もう一度犬小屋にもぐり込まなくてはなりませんでした。

「よしよし、可愛いやつだ」

 とやさしく抱き寄せてくれるはずのご主人は、いきなりこぶしを振り上げると、大声でこう怒鳴りつけたのです。

「こら!八公!利口な犬だと思っていたら、部屋に入ってはいけないという約束をもう忘れてしまったのか!」