隣りの騒音

作成時期不明

 夜、一人、誰にも邪魔されずに好きなモーツァルトを聴くという、そんなささやかな楽しみすら与えられてはいないのかと思うと、男は悔しさで胸が張り裂けそうでした。

 昼間は工場で次から次に流れてくる自動車の部品を溶接する単調な作業をくり返し、まるで疲労と油の固まりのようになってアパートへ帰って来る男にとって、ウィスキーを片手に煙草をくゆらせながらクラッシックを聴くほんの短いひと時だけが、一日の中で許された唯一の人間的な時間のはずではありませんか。

「うるさいぞ!」

 男は大声で叫びたい衝動をじっと我慢していました。隣りの部屋からは薄い壁を通して低俗な流行歌が聞こえてきます。流行歌でない時は麻雀の音が、そうでない時はくだらないおしゃべりが聞こえない日はありません。

「非常識な奴らめ!」

 男は吐き捨てるようにつぶやきました。どうせ世の中の苦労を何一つ知らず、親のすねをかじりながら、のうのうと暮らしている学生たちに違いありません。ろくに学校にも行かない連中に、夜だけは静かに読書をすることを期待する訳にはいきませんが、だからといって他人の楽しみをこういう形で奪う権利などないはずです。

(これからもこんな状態が続くのだとしたら、俺はいったい何のために働いているというのだ…)

 たったひとつの楽しみを失って、すっかり塞ぎこんでしまった男は、やがて昼間の仕事にも意欲を持つことができなくなりました。意欲が持てないまま続ける仕事は、当然のようにミスが多くなり、これではいけないと考え直した男は、ヘッドホンでクラッシックを聴くことを試みましたが、今度は電話の着信が聞こえません。人が訪ねて来てもドアをノックする音さえ聞こえないのです。

(畜生!何というぼろアパートなんだ)

 これがちゃんとしたマンションなら、防音設備もちゃんとしていて、プライバシーは完全に守られているはずです。しかし何の取り得もない自動車工場の工員に支給される安月給では、このおんぼろアパートのうす汚い部屋一つ借りるのが精一杯のことでした。

(もう、我慢ができない!)

 これまで何度そう思って歯ぎしりをしたことでしょう。相手はたかが学生です。

「君たち、静かにしたまえ!少しは他人の迷惑も考えたらどうなんだ」

 思いきって怒鳴り込めば、案外簡単に解決する問題なのかも知れませんが、いざ実行しようとすると大変な勇気が必要でした。そもそも都会のアパートの近所づき合いなど、険悪なことはあっても友好的であるとは考えられません。最悪の場合には、

「関係ねえだろ、馬鹿やろう!」

 とばかり、袋叩きに合うことだって覚悟しなければならないのです。

 男にはとてもそんな勇気はありませんでした。憂鬱な毎日が続きました。非常識な学生たちにはもちろんのこと、隣りの騒音がつつ抜けのおんぼろアパートの構造にも、そんなアパートにしか住むことのできない安月給の身の上にも腹が立ちましたが、何よりも、うるさいぞ!という一言がどうしても言えない自分のいくじなさに腹が立っていたのです。