檻の中のごん太
平成29年10月24日(火)掲載
立札が経っています。
『ツキノワグマ・オス・青森県』
小さな町の小さな動物広場でしたが、その立札の経っている檻の前だけは、いつもたくさんの見物客が集まっていました。ごん太という名のツキノワグマの芸は、新聞に大きく紹介されたほど、今では有名になっているのです。
大勢の見物客を前にして、ごん太は得意そうです。
見物人が集まった頃を見計らって、ひょいと、ごん太が逆立ちをすると、いつものように、わあっ!という歓声が上がりました。ごん太はまるで大スターの様に見物人をぐるりと見回したあとで、逆立ちしたまま檻の中をゆっくりと一回りします。すると、今度は割れるような拍手が起こり、
「ごん太、うまいぞ!」
という声と一緒に、大好物のチョコレートやあんパンが飛んでくるのです。
「どんなもんだい」
広場の動物たちの中で、こんな芸ができるのはごん太以外にありません。隣りにいる、たぬきのポン吉の檻の前は素通りをして行くお客さんはあっても、ごん太の檻の前で立ち止まらない人はいないのです。
ごん太は人間が大好きでした。特に、ごん太の芸を食い入るように見つめる子どもたちが大好きでした。確かにチョコレートやあんパンは大好物でしたが、そんなものが欲しくて逆立ちをしているつもりはありませんでした。ごん太はもっともっと子どもたちに喜んでもらいたくて一生懸命芸を覚えたのです。逆立ちだけではありません。今ではお客さんが投げてくれたお菓子をぱくりと口で受け止めて、おじぎをすることも覚えましたし、片足を上げたままバランスを崩さないで長い間立っていることもできました。
「きみは人気者だね」
いつだったかごん太のことをうらやましがるポン吉に、ごん太は言ったことがあります。
「きみのようにおどおどしていてはだめさ。まずは人間を好きになることだよ。それから人間たちの前で得意の腹つづみでも打って見せたらいい。そうすればきみだってあっという間に人気者さ」
けれどポン吉にはそれができませんでした。
平和な山で、両親や兄弟たちと楽しく暮らしていたポン吉を生け捕りにして、むりやりこんな狭い檻の中に閉じ込めた人間たちを、ポン吉はどうしても許すことが出来ないでいるのです。涙は枯れてしまいましたが、それでも見物客たちが檻を覗き込む度に、ついおどおどと檻の隅で小さくなってしまうポン吉の気持ちは、動物園で生まれて、この広場に連れてこられたごん太には絶対に分かるはずはないのです。
日曜日の動物広場は特別賑やかでした。
子どもたちの笑顔と、たくさんの拍手で一日を終えたごん太は、いつものようにお客さんたちが投げてくれたお菓子の半分を、飼育係りのおじさんに見つからないように、こっそりとポン吉の檻に差し入れてくれるのですが、
「食べないか?」
というごん太の声に元気がありません。
「いつもありがとう」
嬉しそうにお菓子を受け取ったポン吉は、ごん太の顔を見てびっくりしました。真っ黒な瞳に涙があふれそうです。
「どうしたの?体の具合でも悪いの?」
いつもはあんなに元気なごん太ではありませんか。
「…」
ごん太はしばらく黙って首を振っていましたが、思いつめたようにポン吉の顔を見て言いました。
「自分でもよく分からないんだよ」
「ん?」
「あの子が来なくなってから、何だか体中の力が抜けてしまったみたいなんだ」
「あの子?」
「ほら、ぼくの芸を毎日のように見に来てた赤いスカートの女の子。大きな瞳で、笑うとえくぼが可愛くて、黄色いリボンがよく似合う…」
「ああ!」
ポン吉は思い出しました。そう言えば一日に一度は必ずごん太の檻に来て、嬉しそうに芸を見つめる女の子の姿が、ここ一週間ほど見えません。
「病気してるんじゃないだろうか…」
ごん太が心配そうに言いました。
「それできみは…」
ポン吉が言おうとすると、ごん太は恥ずかしそうに目の周りをぽっと赤らめました。どうやらごん太は女の子のことを好きになってしまったようです。元気がないのは、女の子に会えなくなって、生まれて初めて淋しさというものを知ったせいでした。
「忘れてしまうんだよ」