蜘蛛の巣から覗いた青空

平成30年02月01日(木)掲載

 なんてすばしこい奴だ!小さなアブを追いかけながら、トンボはうんざりしていました。抜けるような青空に綿菓子のような雲が浮かび、真夏の太陽がまぶしく輝いています。こんなのどかな日には、稲の穂にでも止まってのんびり羽根を休めていたいのですが、今のトンボにはとてもそんな余裕はありませんでした。何しろ昨日から何も食べていないのです。おなかがぺこぺこでめまいがするほどでした。絶対逃がさないぞ…。ようやく見つけたそのアブを、トンボは死にもの狂いで追いかけていたのです。

 一方アブの方も命がけでした。逃げても逃げても、振り向くとすぐ後ろから鬼のようなトンボの顔が近づいて来ます。なんてしつこいトンボなんだ!アブは力一杯逃げました。生まれて間もないアブの子どもには、これから先まだまだ楽しいことがたくさんあるはずです。こんなところで捕まって食べられてしまうわけには行きません。森へ逃げよう…。急ぐアブも、森で捕まえてやる…。追いかけるトンボも、その頃にはすっかり疲れ果てていたのです。


 森にはもうひとり、トンボよりずっとお腹を空かせた昆虫が空きっ腹を抱えて獲物が来るのをじっと待っていました。蜘蛛です。黄色と黒の縞模様の鮮やかな足を伸ばすと、子供の手のひらほどもある大きな蜘蛛でした。明日は網の場所を変えてみよう…。獲物の捕まらない蜘蛛は、夜になるといつもきまってそう思うのですが、すがすがしい朝がやって来ると、何だかいいことが起きそうな気がして、もう一日だけ待ってみよう…もう一日だけ待ってみよう…と、とうとうこれで一週間になろうとしています。暑いなあ…。まぶしい太陽を見上げた蜘蛛は、今日こそはどこか別の場所に網を移すつもりでいたのです。


 木の間を縫ってアブが逃げ惑います。もうくたくたに疲れ果てているというのに、それでも何とかトンボにつかまらないでいるのは、腹ペコのトンボの方がアブよりもずっと疲れているからでした。もうだめだ…。アブは何度もそう思いながら、いや、頑張るんだ!と羽ばたき続けました。もう諦めてしまおうか…。トンボもくじけそうになる心を、ここであきらめたら飢え死にだ…。と励ましながら追いかけていたのです。驚いたのは蜘蛛でした。久しく獲物のかかったことのない網に向かって、アブとトンボがふらふらと近づいてくるのです。今日はついてるぞ!蜘蛛は思わず緊張して、鮮やかな長い脚をぴんと伸ばし、息を殺してじっと獲物を待ちました。


 そら、捕まえた!ようやくアブを捕まえたと思ったトンボは、捕まえたままの格好でその羽根を蜘蛛の網にひっかけてしまいました。しまった!と思った時にはもう遅すぎます。細くてねばっこい蜘蛛の糸は、もがけばもがくほど体にくっついて離れません。まるで吸血鬼の様な顔をして、蜘蛛はさっそくトンボの体を糸でぐるぐる巻きにし始めました。

「助けて…助けてよ」

 哀しそうなトンボの声には耳を貸そうともせず、蜘蛛はせっせと糸を巻き付けます。見る見るうちにトンボの体は半分近く糸に隠れてしまいました。

「助けて…助けてよ」

 トンボは泣き出してしまいましたが、そのトンボの手の中からもう一つ、

「助けて…助けてよ」

 という小さな声が聞こえます。それがアブでした。

「うるさいぞ!」

 蜘蛛が口を開きました。

「いくら叫んでも助けてやる訳にはいかないよ。ぼくは腹ペコなんだ。君たちは待ちに待った獲物なんだよ」

「でも、でもね」

 トンボが言いました。

「僕も実は腹ペコなんだよ。朝から何も食べちゃいない。追いかけて追いかけて、ようやくこのすばしっこいアブを捕まえたと思ったら、そこが君の網の中だったんだ。だからアブを君の網に追い込んだのは、このぼくなんだ。お互いにお腹の空いたもの同志、ここはひとつ助け合おうじゃないか。せっかく捕まえた獲物だけど、僕はこのアブを諦めて君に譲るよ。だからぼくだけは逃がしてほしいんだ」

 すると、

「何を勝手なことを言ってるんだ」

 今度はアブが怒って言いました。

「ぼくがいったい何をしたって言うんだい。ぼくには君たちに食べられなきゃならない理由なんて何一つないじゃないか。第一、ぼくはまだこの世に生まれて間もない子どもなんだよ。これから楽しいことがたくさんあるはずだ。こんなところで死ぬわけにはいかないよ」

 けれど蜘蛛の返事はとても冷たいものでした。

「どちらもいい加減にするがいい。君たちは勝手にぼくの網に飛び込んできたんだ。いいかい、トンボくん。君は自分がアブを網に追い込んだように言うけれど、ぼくがここに網を張っていたということは知らなかったはずじゃないか。追い込んだなんてとんでもないこじつけだよ」