水神池の鯉

平成30年02月09日(金)掲載

 小さな漁村に月が出ています。その月明かりを避けるようにして、黒い影がひとつ、風のように村を駆け抜けました。村はずれの水神池にたどりついた影は、はあはあと荒い息を吐きながら辺りを見回して、誰もいないことを確かめると、腰につけた網を取り出しました。真っ暗な水面に白い波しぶきがたったかと思うと、すくい上げた網の中には見事な鯉が一匹踊っています。影は跳ねる鯉を網のまま小脇に抱えると、もと来た道を一目散に駆け出しましたが、その一部始終を岩陰からじっと見ていた瞳があったことに、そのとき影は気が付きませんでした。


「おとう、鯉だ!鯉を捕って来たでや!」

 浜吉の声に目を覚ました糸次郎は、

「こ、鯉だと?浜吉、お前いったいどこでそれを…」

 汚れた煎餅布団の上で体を起こそうとしましたが、そのとたんに激しく咳き込んでうつ伏せになりました。

 浜吉が慌てて背中をさすろうとすると、その手をふりほどくようにして、

「まさかお前、罰当たりなことしでかしたんじゃあるめえな?」

 糸次郎は怯えた様に浜吉を見上げています。

「何言うだ、おとう、お医者様も言ったではねえか、おとうの病気には鯉を食べるのが一番だと。余計なこと心配しねえで横になるだ。すぐに料理すっからな。こう見えても料理には自信があるだ」

 浜吉はさっさと湯を沸かしにかかります。

「待て、浜吉、お前、さては水神池へ行っただな?水神池の鯉を捕って来ただな?」

「おとうは病気を治すことだけ考えていればええだよ。どこで捕っても鯉は鯉でねえか」

「それは違う、違うだぞ、浜吉。水神池の鯉は水神様のお遣いだということぐれえ、お前だって知らぬわけはあるめえ。ああ、何という大それたことをしでかしてくれただ。罰が当たるだぞ、きっと罰が当たるだぞ、返して来い、返して来るだ、浜吉」

「いいや、おら返さねえ。おらたちの暮らしを護るのが水神様の仕事だべ?もし本当に水神池の鯉が神さまのお遣いなら、おとうの病気を治すために食べられるのは、むしろ当たり前でねえだか。神さまだってそれでおとうの病気が良くなれば、きっと喜んでくれるはずだよ。おらはそう信じてる」

「理屈だ、それは理屈だよ。世の中は理屈通りには動いちゃいねえ。こんなことが世間に知れてみろ、いったいどんなことになるだか…ああ、怖ろしい、お前は恐ろしいやつだ」

「おとう、理屈が通らねえなら、それは世の中の方が間違ってるだ。心配しねえでも罰なんぞ当たりはしねえだよ。それにおらが鯉を捕まえたことは、おらとおとうしか知らねえこった。黙っていれば分かりゃしねえ。さあ、湯が沸いただ。おとうは何も考えねで鯉を食べて、一日も早く病気を治してけれ。それが水神様への一番の恩返しだべ」

「おら食べねぞ、絶対に食べねぞ」

 という糸次郎の声をよそに、やがて浜吉の家に魚の煮える良い匂いが立ち込めました。