柱時計の恩返し
平成30年05月26日(土)掲載
ボーン、ボーン、ボーン…。
鳴り出した柱時計の音を聴いて、
「そろそろだね」
とお婆さんが言いました。
「ああ、そろそろだ」
お爺さんが答えました。二人ともいつになくおしゃれをしています。この日のために新調したワンピースを着て、
「少し派手だったろうか…」
と心配するお婆さんを、
「いやいや、よく似合ってるよ。どう見ても十は若く見える」
とひやかしたお爺さんだって、素敵な紺のスーツを着込んで、とても六十五歳とは思えません。
お爺さんとお婆さんが結婚してからちょうど四十年目に当たる今日と言う日は、二人にとってはただの結婚記念日ではなくて、長い間あたためて来た夢がようやく実現するは嬉しい日でもあるのです。
「お爺ちゃん、忘れ物だいじょうぶ?」
息子のお嫁さんが世話を焼きます。
「向こうへ着いたら電話するんだよ」
息子は何だか心配そうです。
「外国のお土産を待ってるよ。ああボクも飛行機に乗りたかったなあ…」
孫の一郎くんは一緒に連れて行ってもらえないのが残念でなりませんでした。そう…、もうお分かりでしょう。二人は結婚四十周年を記念して、夫婦で海外旅行に出かけようとしているのです。
「あれは入れたし、これは持ったし…ええっと、そうそうカメラを忘れてる」
出発前の慌ただしい時間の中で、ボーンとまた一つ柱時計が鳴って、まるでその音を合図にしていたかのようにやって来たタクシーは、お爺さんとお婆さんを乗せると、手を振る息子たちをあとに、空港に向かって見る見る小さくなって行きました。そしてそのときの柱時計の音が、いつもと比べると何だか元気がないことに気が付いていた者はただの一人もいなかったのです。
古い古い柱時計でした。人間で言えばとうの昔に百歳は超えているでしょう。頑張り者で、しかもとってもしっかり者の柱時計でした。一日のうちに一分だって狂ったことがないというのが自慢の柱時計は、この世に生まれてからというもの、お爺さんが盲腸で入院してネジを巻いてもらえなかった日を除けば、一日も欠かさずに時を刻み続けて来ました。働いて働きぬいてすっかり歳を取ってしまったのです。歯車はすり減っていました。ゼンマイだって弾力がなくなっていました。ボーンという音に元気がないのは、実はそのせいだったのです。ボーンという音だけではありません。耳を澄ませてよく聞くと、コチコチという振り子の音だって、ほんの少しですが不規則です。時にはもうそれっきり止まってしまうのではないかと思うくらい間隔が開くことがありました。
柱時計のそんな様子に気が付いたのは、この家に古くから棲みついている仲良しネズミのチュー助ぐらいのものでした。
「柱時計さん、だいじょうぶかい?」
柱時計の頭によじ登って心配そうに顔を覗き込んだチュー助は、もう少しで足をすべらせてしまうくらいびっくりしてしまいました。だって、あれほど頑張り屋の柱時計の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちているのです。ひどい汗でした。汗と涙とで柱時計の顔はぐしょぐしょになっていました。