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鳥居本 アクセス 佐和山城
  中仙道 現状写真[工事]    朝鮮通信使  
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■鳥居本アーティストインレジデント 

現在 企画の段階です.サイトは作成途中ですが周知の為アップします、今後順次家屋の写真等アップして行きたいと思います。

旧中山道鳥居本宿(旧鳥)に現存するの古い民家を
アーティストレデンシーや古都探訪基地として地域の活性化と国際化、古い民家の保存と再利用などとして古い民家を体験する場の提供等を企画したいと思案します。幸い 都市部では得がたい広さ(敷地2000平米と竹林200平米、現存家屋2棟、蔵1棟、小小屋崩壊寸前1棟?(味噌蔵1棟取壊し済)があります。国際的で機能的な改築デザイン公募で行こうとおもいます。
新幹線米原駅、高速道路米原、彦根インター、 国宝彦根城、多賀大社、琵琶湖松原遊泳場、番場の忠太郎 に隣接しています。歌舞伎で有名な法界坊の上品寺は徒歩3分です。このページはこの企画実現させる様に、広くアイディヤやボランティヤ募集の為完成前の作成途中のページもありますが公開して行きます。面白い企画募集しますお見苦しいところお許しください。

彦根駅及び新幹線米原駅まで近江鉄道鳥居本駅からそれぞれ1駅徒歩3分、また車では彦根インター及び米原インター ̄から8〜12分分と言う便利な立地ながら  都市化されていません。

   

■中仙道鳥居本宿

鳥居本は、近江湖東佐和山城の500M東に位置し、中山道の旧宿場町で、京都から数えて7番目、江戸から第63番目の宿場です。近江路では最後の昔ながらの宿で、北端の下矢倉からは北国街道へ、南端の百々の道標から「朝鮮人街道」 にも分岐していました、まさに交通の要衝として発展してきました。 鳥居本という地名の由来は、その昔、多賀大社の鳥居がここにあったから来ているとも、神教丸本舗の有川家前で中山道が突き当たり右へ折れ、左に曲がって宿場を出てゆく。ちょうどこの左へ曲がって行く辺りが鳥居本という宿の名の由来となった顔戸の日撫神社鳥居跡とも言われ今日に伝わりますが、その鳥居がいつまで存在していたかは不明です。重ねて申し述べますが、新幹線米原駅から1500M、米原インター、彦根インターから3〜4キロと言う好条件のアクセスのことを考えると奇跡的に都市化からぎりぎり逃れ、袖塀に格子構えの古びた家並みや看板が見つかり、旧街道の雰囲気をかもしだしています

■佐和山城鳥居本大手門

数百M西の佐和山城の重要性に着目したのが織田信長です。京極、六角、浅井の勢力争いに加わり、そして終止符を打った信長は、安土城の完成までの間、まるで自分の城のように佐和山城を利用していたことが『信長公記』などの記録に残ります。当時、佐和山山麓には入江内湖・松原内湖が広がり、東山道、北国街道、浜街道(朝鮮人街道)が交差する佐和山城は、天正7年(1579)に安土城が完成されるまでの間、信長の居城的性格を持つ重要な城郭とされていました
現在、佐和山城をしのぶ遺構は”破城”の為ありません

■朝鮮通信使
朝通信使がこの街道を行列した事しばし思いを馳せて見よう。

朝鮮通信使の起源は室町時代第三代将軍、足利義満
(あしかがよしみつ)の時からです。 


江戸時代に合計12回「正使」「副使」はもちろんのこと「書記」「通訳」「書家」「画家」「医者」「僧侶」など合わせて500名ほどにもなり、日本からの警護や荷役のための人数を合わせると 2000人を超える大行列がこの家のまえを行列したのです。
平均25年に1回、つまり一生に一度か二度しか経験出来ない事であり、珍しい衣装や、みつぎ物として連れて来られた珍しい動物などを一目見ようと、街道にはおびただしい歓迎の見物人が押し寄せました。

鳥居本の 百々の道標から彦根城下に入る道は彦根道と呼ばれますが、一方、朝鮮人街道とも呼ばれます。
後半の行程は、大坂から淀川をさかのぼって、淀に上陸し、京都から大津で昼食、草津から中山道に入り、守山で宿泊し、野洲町石畑から朝鮮人街道を利用しました。守山で宿泊後は近江八幡で休息し、彦根宗安寺で宿泊後、鳥居本からふたたび中山道、美濃路を経て江戸にむかいました。
前日宗安寺を出発した一行は翌日に摺針峠の 望湖堂で休憩しています。




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