|
四本柱の上に、平らな、主として格(ごう)天井を積んでいる太鼓台。その上に薄い飾り布を用いることが
多い。 ![]()
平天井型の太鼓台。大浜は来島海峡の四国側に位置する。井形に組んだ舁棒には大勢の顔
が描かれている。四本柱を背にした乗り子と大きな太鼓。太鼓台の乗り子の座り方には、この ように四本柱を背にして座る方法と、四本柱間の中央に座る方法とがある。天井には赤い布を 被せているように見えるが、その布も薄いのか、かすかに格(碁)天井の様子が認められる。観 衆からよく見える布地部分には、絵なのか刺繍なのか、木の枝(梅の花?)を巡らせている。 以下に、この絵馬に似た太鼓台を紹介する ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
渦浦は大浜の沖合い、大島にある。この太鼓台も、乗り子は四本柱を背にして四隅に座る。乗
り子の移動は、このように肩車。乗り子は“神童”である。運行中、足を直接地面につけないで、 肩車にしている地方は相当数ある。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
「ヨイヤセ」は掛声からの呼称である。愛媛県南予地方には、豪華な太鼓台の“祖形”とも言え
る素朴な「ヨイヤセ」や「四ツ太鼓」が、「牛鬼」や「五ツ鹿」などと共に、数多く伝承されている。
また、南予地方では天井部分を“障子”と呼ぶ。紙張りした障子のイメージからの呼び方と思う
が、確か和歌山県御坊市の「四ツ太鼓」でも“障子”と言っていた。南予地方の太鼓台を一般的 には「四ツ太鼓」と呼ぶのも、御坊市の四ツ太鼓と一致する。 ![]() ![]()
沖友は大崎下島の南面にあって、同島の御手洗と共に海運で栄えた。大坂の絵師が描いたと
伝わるのが、この絵馬である。平天井型の櫓(ヤグラ)が威勢良く描かれている。
このコーナーで紹介したように、この平天井型の太鼓台は、来島海峡域・愛媛県南予地方・九
州日向灘域・和歌山県御坊市付近などの各地に点在する。
地元の古老の中には「描いた絵師は、沖友の櫓を見て描いたわけではない。従って、絵馬は
沖友の櫓ではない」と主張する人もいた。その真偽は今後の研究に譲るとして、私自身は、平 天井型と蒲団型の2様式を、同一の地域で確認できたことで、「太鼓台の発展過程パターンを 物語るのではないか」との思いを強くしている。
右の写真は現在の沖友の櫓で、重厚な本物蒲団を天井に積んでいる。絵馬の櫓と現在の櫓
の形状が大きく異なる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
和歌山県日高川河口に位置する御坊市は、上方(灘地方含む)から江戸に向う航路の主要な
寄港地であり、特に多くの樽廻船の母港でもあった。そのため、現在の阪神間との文化・経済 交流にも深いものがあり、祭礼様式等も彼の地から何らかの影響があったものと想像できる。
紀伊半島域で現在知られる太鼓台の祭礼は、この日高川河口域の日高町・川辺町・御坊市
と、やはり航路の寄港地である梅林で名高い南部町、それに三重県熊野市である。御坊の太 鼓台は「四ツ太鼓」と呼ばれる。形態は写真のように幌を被せたような平天井型で、この形態と 関連するものとしては、同じ祭礼道具の「傘鉾」を上げておきたい。四ツ太鼓の天幕の<方形 >と、傘鉾の<円形>との違いはあるが、その装飾・使用目的は「神の依代」との見方もでき、 太鼓台発生に何らかの関連があるのではないかと想像している。
乗り子についても言及しておきたい。歌舞伎の隈取同然の化粧に目を奪われがちとなるが、そ
ればかりではない。各地の太鼓台・乗り子に共通する所作としての“反り返り”をぜひ触れてお きたい。結論から言えば、乗り子の反り返りは、恐らくかっての太鼓台ではごく一般的な所作の 一つであったものと思われる。思いつくままに記せば、長崎・熊本県苓北町・徳島県日和佐町・ 小豆島・高松市女木島・愛媛県保内町雨井・徳山市須々万など、形態や規模の異なる数多く の太鼓台で確認されている。
御坊組の四ツ太鼓には、昔京都で作られたという龍の刺繍がある。(見学当時) 拡大写真で
は龍のクシャ(口元の髭)が肉盛のない平縫いという技法で刺繍されていて、年代物であること を物語っている。
なお、四ツ太鼓運行の掛声については別の機会をとらえ、長崎などとの各地比較を試みたい。
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
太鼓台の呼称は「ヨイマカ」。掛声「ヨイャマカ(セ)」から呼ばれるようになった。台や舁棒は頑
丈そのもの。ただ格天井を支える四本柱は太くはない。乗り子は台四隅の部材にきつく縛りつ けられる。
ヨイマカは、藩政時代の六日町本庄が商業地として栄えていた頃、商人を通じて大坂地方の蒲
団太鼓に真似て始めたものと伝わる。また祭日の間には、歌舞伎見立ての着飾った人形を披 露する舞台も設置される。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
昔はだんじりを船に乗せていて、その際の船上での掛声は「ホーランエー、ヨイヤサノ、サッサ」
であり、舁手の若者たちは手踊りをしていたと聞いた。
普段に担ぐ時の掛声は「チョイヤサ、ヨイヤサ」である。神輿と張り合うときは「ミコシ、エーコン」
(神輿、よう来ない)と発していた。
乗り子は青色の襦袢を着用していた。(この衣裳は単に「乗り子衣裳」と呼んでいた)乗り子に
青い襦袢を着せる地方が少数ではあるが存在するため、更なる考察を加える必要がある。乗 り子は、背当ての赤い座布団と一緒に高欄に縛りつけられていた。なお、担ぎ手は顔に化粧を していた。
だんじり上部の構造は、まず傘があり、神社拝殿に吊るしているのと同様な大鈴を転がしてい
た。天井は格天井、紙張りだった。(台には“そり”がある)
|