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大分市西部を北流し別府湾に注ぐ大野川・小中島川・乙津川の河口域は、かって家島(イエジ
マ)・小中島(オナカジマ)・徳島(トクシマ)などが“川中島”をなし、隣接・点在していた。江戸期にこれ らの河川で分断されていた、三佐(ミサ)・家島・小中島および徳島と鶴崎は、三佐が豊後・岡 藩、家島が臼杵藩、鶴崎等が肥後・細川藩の領地で、各藩主それぞれの参勤交代の発着地と なっていた。現在はいくつかの大橋でつながっているが、今回この地域を車で移動してみて、 改めて「かっては島であった」ことが、よく理解できた。 ![]() ![]()
現在、この地域一帯は埋め立てが沖合いまで進行し、多くの企業が立地する新産業都市とし
て大いに変貌を遂げている。市の中心部から西へ伸びる臨海産業道路は、幅40メートル・片 側4〜5車線、この地域の経済的発展にひときわ拍車をかけている。
この地域での「蒲団型太鼓台」の存在を知った“発端”は、こうである。
昭和53年頃、太鼓台の分布状況を“瀬戸内中心、港町中心に分布”と大まかに捉えることが
できた私は、その調査過程で、@太鼓台と船とは大いに関連性がある。A人口密集、しかも交 易を通じて情報先進地であった当時の港町には、太鼓台を受入れる下地があったのではない か。と推論し、B九州各地のかっての港町の所在する役場等への問合せを行った。Cその中 に、肥後・細川家の参勤交代御座船「波奈之丸」(なみなしまる)の発着地・鶴崎に近い小中 島・天満神社に、「蒲団型太鼓台」(地元では布団山車と呼ばれていた)が伝承されていたので ある。瀬戸内に開かれた別府湾の重要な湊である鶴崎のお膝元に、「ここにも太鼓台はあった のか!」と確認できた時、私の中では、港町と太鼓台・船と太鼓台との関連は、揺るがしがたい ものになっていた。
今回以下に紹介する貴重な情報は、ご自身も布団山車の復活に並々ならぬ情熱を注がれて
いた小中島在住の郷土史家・佐藤善忠様からいただいたものである。(残念ながら佐藤様は平 成5年に他界)
それは、大正初期頃まで小中島・天満神社へ奉納されていた2台の布団山車に関する、ご丁
寧なご自身の調査資料であった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
佐藤様からいただいた資料及び内容を、以下の箇条書きにて情報共有したい。
<全般的なこと>
(1)小中島・天満神社の祭礼は、明治以前は6月25日(旧)であった。
(2)布団山車が2台、ケンカ山車が1台あった。
(3)布団山車の1台は、木部が朱塗り、天部(蒲団部上)に竜の刺繍があった。
(4)もう1台の布団山車は、木部が白木のもので、天部に梅鉢の刺繍があった。
(5)ケンカ山車は、近隣のお祭りに出ている「担ぎ山車」と同様なもの。
(6)布団山車の現状−昭和54年当時
・昭和30年代に梅鉢のものが出たきりで、中断している。
・その布団山車の付属品は、木部のみ残されていて、他は腐朽した。
(7)小中島における布団山車の導入起源については不明。
(8)ただ、佐藤様の祖父が「大阪方面で紀州杉を担ぎ棒として購入した」とのことで、それは明
治維新頃である。
(9)現在の神輿が明治8年に購入されたと伝えられている。布団山車もその頃かも知れない。
(10)寛文(1661〜1672)年中より、小中島の先祖が、主として山口・広島方面の瀬戸内との交
易を行っていたので、これら地域との関連があるのかも知れない。また、この地域(大分を含む 河口域エリア)での帆船による交易は、小中島以外にはしていなかった。小中島の船の稼業も 鉄道が敷設された昭和10年頃以降は皆無となった。
<布団山車の運行等@〜天部に竜のある布団山車の場合(上組)>
(11)担ぎ方−支配人の拍子木により、ボウバナ(棒端…前後の本棒2本の前に計4人)が手
旗を上げて、乗り子(普通は2人、4人の場合もある。衣裳は、赤衣に赤縮緬のタスキ・赤鉢巻 姿。小学生高学年)に大声で、「昔このもと」と合図する。
(12)乗り子はそれに続き、太鼓と共に「昔このもと弁慶が、播磨の和尚さんに育てられッコラセ
ー」と、太鼓をドンドコドンドコドンと打ち、両手を上に突き上げて、「差してくれ」と担ぎ手に呼び かける。
(13)担ぎ手全員、「差しましょう」と山車は高く差し上げられ、次に静かに肩に下ろす。乗り子は
太鼓をドンドンドン、ドンドコドンのドンと打つ。担ぎ手が「ハーヨイショ」と囃す。(以上を繰り返す)
(14)山車を据える場合は、支配人が棒端に合図して、棒端が手旗を振って「鎮めましょう」と乗
り子に伝える。乗り子の「鎮めて鎮めてヨーイヤサー」により、山車を据える。
<布団山車の運行等A〜天部に梅鉢の刺繍ある布団山車の場合(西組)>
(15)西組の担ぎ方の要領も、上組と大体同じであるが、唄の文句が異なる。
「そーもそも、妹背の始まりは、近江の石山秋の月、月に群雲(ムラクモ)花に風、風の便りは
田舎から、かわらを隠せし淡路島、縞の財布に五十両、…」、更に「牡丹に唐獅子竹に虎、トラ 追うて…」と続く。(最後まで文句を知る人がいない)
以上が、佐藤様から提供いただいた内容である。
三佐・野坂神社春祭り 見学記(2003.04.29)
実は今回、私は以上のような小中島の布団山車を念頭に置きながら、小中島に近い三佐・野
坂神社の春祭りの布団山車(現在地元では担ぎ山車と呼んでいる)を見学させていただいた。
野坂神社でのお神輿に供奉する行列には、獅子舞の他、太鼓山車と呼ばれるダンジリが2台、
毎年異なる人形を飾る人形山車が6台、担ぎ山車が2台(内1台が布団山車で、もう1台がい わゆるケンカ山車)であった。神輿に続くお旅所までの供奉の順番は、@太鼓山車2台−担ぎ 山車(A布団山車−Bケンカ山車)−C人形山車6台の順であった。神幸開始前、神社の鳥居 内(境内)に入っていたのは太鼓山車2台と担ぎ山車2台で、屋根の高い人形山車6台は鳥居 の外で待機していた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
ケンカ山車は、前述の小中島・佐藤様からいただいた模型の写真とよく似ている。一人が山車
の前方に立ち指揮し、もう一人が斜めに据えた太鼓を叩く。中央の柱には写真のように榊・御 幣・提灯を「輪」に飾っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]()
=感 想=
見学させていただいたのが、昼間の野坂神社とお旅所での場面だけだった為か、神輿と渡り合
う荒々しさでは太鼓山車、華麗さでは人形山車(共にお囃子が付属する)、の構図であった。
その間にあって布団山車を含む2台の担ぎ山車は、どうしても見た目には地味な存在に映っ
た。確かに、太鼓山車や人形山車は、曳き・回すのが運行の中心で、担ぎや差し上げを主体と する布団山車などとは異質とは言うものの、残念ながら、大きさも装飾の華やかさも担ぎ山車 は見劣りがしてしまった。それはちょうど、太鼓台がメインとなっている文化圏各地の代表的な 祭礼の場合に、ややもすると豪華な太鼓台ばかりに目が向き、他の小型のだんじりや獅子舞 などの奉納物に、注意を払わなくなったのと同じことなのかも知れない。ここ三佐では、太鼓・ 笛等で囃しながら運行する太鼓山車・人形山車が間違いなく主役であった。
<主な掛声>
・太鼓山車の掛声
(大若)…今年の祭礼では神輿の進行を阻止する役割を果たしていた。
太鼓の打ち方は、2拍子の連打。掛声は「ヤッサ、ヤッサ、ヤッサ」の繰り返し。
(八若)
太鼓の打ち方は、明らかに大若とは異なっていた。掛声は大若と同じ「ヤッサ、ヤッサ、ヤッサ」
も少し出てくるが、主には「ソリャ、ヨイヨイヨイ」の繰り返し。
・布団山車の掛声…録音テープを聞いても判読しにくい。(地元の方に再確認する要あり)太鼓
はテンポが速く、休みもなく軽快な打ち方をしていた。
「力は強いぞ」(…今様の掛声だろうか)
「ヤッタ、ヤッタ、ヤッタ」(「ヤッサ、ヤッサ、ヤッサ」かも知れない)
「アーヨッソィ、アーヨッソィ」(テンポ早く、このように聞こえたが…)
※三佐の布団山車を担ぐ際の掛声からは、小中島・布団山車で佐藤様からご教示いただいた
のと同様な合図や唄は確認できなかった。かっての小中島と現在の三佐、近接する両地にお けるこの差は、いったいどういう理由によるものだろうか。太鼓台受入れ先の土地がそれぞれ 異なっているのだろうか。或いは小中島では布団山車が祭礼の主役であったのに対し、三佐で は太鼓山車・人形山車の従に甘んじ、リズム・掛声等にも大きな影響を受けているからなのだ ろうか。
大分市西部のこれらの地が、このように「太鼓台文化圏」の歴史豊かなエリアでありながら、大
分県側からの太鼓台関連情報が極めて少ないのはなぜだろうか。ぜひ、地元で運営・保存に 携わっておられる皆様からの身近な情報発信を、掲示板「談話室・TBK」へお寄せいただきた いと思います。各地とのつながりが明らかになり、“太鼓台”の歴史解明が更に進展すると思い ます。
<その他>
今回、三佐・野坂神社以外にも、小中島・天満神社、鶴崎・剱(ケン)八幡宮等へも車を走らせ
た。その中、剱八幡宮では、阿波徳島津田の人の寄進になる御神燈を実見できた。年代的に は天明元年(1781)なので、太鼓台等との関連性はあるのかな、と推測した。津田にも素朴な 太鼓台「ヨィヤショ」を確認している。 ![]() ![]() ![]()
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