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伊吹島は香川県西部・観音寺市の沖合い、燧灘に浮かぶ。この島が地の利を得て良質のいり
こ(煎り子、煮干)を産することで名を馳せているのは、周知の通りです。また、内海の独立島で ある故か、風習・方言等民俗学の面からも以前から注目されていて、“知る人ぞ知る島”なので す。
西讃・東予地方の秋祭りとしては、他の地方より一足早い10月1日、2日(近年は近い土、日
曜)に行われている。ここに古い様式を留めている3台の太鼓台があることも、太鼓台文化に 興味を持つ人々からはよく知られるようになった。伊吹島の太鼓台について一口で言うとすれ ば、「200年以前から確実に伝承されていて、上方文化の影響が濃い」ということだろうか。
太鼓台文化圏の中でも、四国北岸の西讃・東予地方は大型で刺繍中心の太鼓台が伝承され
ていることが大きな特徴ですが、上方の影響が濃いと言っても、もちろん伊吹島もその例外で はなく、刺繍を施した相当に豪華な水引幕・蒲団〆が見られます。平地が少なく坂道の多い島 であるため、太鼓台そのものは、これらの地方に比べほんの少し小振りではあっても、決して 「小さい」と言うほどではない。むしろ、伝承が確実に判明している200年以前の導入当時とし ては、これらの各地より同程度もしくは若干大きかったことが想像されます。
伊吹島の全般的な歴史・民俗等に関しては、「伊吹島歴史散歩」(同島ご出身・三好兼光氏のホ
ームページ)及び「伊吹島の写真集」(同・「きちよ」さんのホームページ)が参考になります。私の このコーナーでは太鼓台に限定して、「宝島」と形容したのはなぜか、現状の様子と課題、課題 に対する私たち同世代人の役割、そして各地とどうつながるのか、等について私見を述べた い。
今年(平成14年)のお祭り前、東部の太鼓蔵(本殿横・西側)を見せていただいた。その結果、
伊吹島ではこれまで、1808年(文化5)の『太鞁寄録帳』が最も古い記録とされていたが、それ よりも3年遡る1805年(文化2)記載の「道具箱」が出てきました。(長持状。蒲団枠を保管する 箱として使用)元来伊吹島では、3台ある太鼓台のうち西部太鼓台が最も早くから導入されたも の、と言い伝えられています。ところが今回、その西部の記録(『太鞁寄録帳』)より早い時期に 東部太鼓台の存在が確実に裏づけされたので、西部太鼓台の導入は更に時代が遡るもので ないか、と私自身の中では考えるようになりました。(西部の『太鞁寄録帳』は全く新規に新調し た際の記録ではなく、拵え直しの“新調”記録であると私は判断します)
なお太鼓蔵には、1844年(天保15)の桶、1858年(安政5)の「猩々緋御水引」箱のほか、古
い太鼓台の道具類も同時に残されています。歴史資料の乏しい私たちの太鼓台文化圏にとっ て、古い時代の様子がわかるこれらの品々は、甚だ重要です。品数の多いこのような道具箱・ 道具類は、太鼓台文化圏広しと言えども「まず、残っていない」と明言して差し支えないでしょ う。年代が古く、これほどまとまって残ってきたのは「奇跡」と言ってもよい。太鼓台文化の歴史 解明や各地との関連解明に活用する資料として、ぜひ活用させていただきたいと思います。
このように、幕末期からの太鼓台文化遺産を保管・伝承してきた東部太鼓蔵ですが、現在では
屋根が抜け落ち、内部に雨が降り込んだり、入口が傾き引き戸が動かないなど、朽ち果てる寸 前となっています。再建する話も聞きません。もし再建されたしても、現在“死蔵”している諸々 の保管箱・古い太鼓台の道具類は、広いスペースが必要となるので、再び蔵の中に収まるか どうかわからない。一部では「焼却する」話さえ聞いています。
結論から言いますと、何とか後世へ残し伝えていって欲しい。私は「今まで、良くぞ残して下さっ
た」と伊吹島の皆様に声を大にしてお礼を言いたい気持ちです。貴重な文化遺産を後世に伝え ることは、一地方・一島嶼の問題ではありません。ましてや西日本一円に広がる太鼓台同士 は、何らかの関連の糸で結ばれています。本欄の後段で述べる伊吹島と各地とのつながりが、 そのことを明確に物語っています。私たち文化圏に生きる者にとっては、一つ一つがかけがえ のない品々で、今のままでは数年と持たないと思うと、行動は真に急を要します。太鼓台文化 圏に生きる一人として、一体何ができるのか、伊吹島の人たちと協力して行動を起こすことを、 真剣に考えています。
ちなみに、現時点、確認されている伊吹島太鼓台の主な記録・道具箱類は次の通りです。
西部(上若) 1808(文化5)『太鞁寄録帳』 1866(慶応2)「太鼓水引箱」
東部(下若) 1805(文化2)蒲団枠を保管する「道具箱」 1844(天保15)桶 1858(安政5)猩々
緋御水引」箱
南部(中若) 1823(文政6)「太鞁水引箱」 1833(天保4)『太鼓帳』
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※これらの他、太鼓台新調時の記録として、西部(上若)太鼓台の1808年(文化5)の『太鞁寄
録帳』、南部(中若)太鼓台の1833年(天保4)『太鼓帳』が現存しています。
(1)貝塚太鼓台との関連
貝塚太鼓台との関連については、「探訪・貝塚太鼓台」で詳しく紹介したが、その一部補足をし
ておきたい。
貝塚・南ノ町太鼓台の「せり上げ」の説明では、基本的構造の理解が得られればよいとの判断
から、台内部の“芯棒と大型スパナ”の存在(写真下、貝塚南ノ町太鼓台参照)は、説明を省略 しました。(芯棒と大型スパナは南ノ町にだけ設置されていて、他の貝塚太鼓台にはない)
ところが、伊吹島・西部太鼓台にも、これとほとんど同じ構造が備わっていたのです。南ノ町太
鼓台では「大型スパナ」を用い、芯棒を大型スパナで回すことにより、ロープの程よいところでス パナにて固定する、いわゆるロープ固定法の簡略化を行っていた。
伊吹島・西部太鼓台では「ギヤ・ロック」式となっていたのである。芯棒は現在の太鼓台では使
用されていないが、ちゃんと付いていた形跡がある。
また、伊吹島・南部の太鼓台にも「せり上げ」構造が備わっているが、こちらは南ノ町太鼓台以
外の貝塚太鼓台と同様、芯棒・ロック機構は認められなかった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
(2)蒲団部の構造について
今回東部太鼓台の太鼓蔵を見学して、「各辺分解型」(枠蒲団型太鼓台のうち、一段の“蒲団”
枠がバラバラに分解して保管等できる形態)の蒲団枠であったのには驚いた。東部は「各辺分 解型」、西部は「各段一体型」(一段の“蒲団枠”が分解できない形態)、南部は未確認。
この各辺分解型を有する太鼓台は、愛媛県保内町磯崎の四ツ太鼓と、磯崎から明治初年に伝
えられた愛媛県長浜町櫛生(くしゅう)の四ツ太鼓が確認できている。保内町と言えば、鉢巻型 蒲団と竹籠を内包する雨井の四ツ太鼓がある。雨井は佐田岬半島の八幡浜市寄りの宇和海 側にあり、磯崎は半島の北側・伊予灘側に位置する。蒲団枠の構造の詳細については、「フト ン考」を参照して下さい。
蒲団枠を固定する方法は、東部太鼓台では前述の写真や下の写真のように、差し込んで引っ
掛ける方式であるのに対し、磯崎・四ツ太鼓の場合には穴に差し込んでくさび(楔)を通して留 める方法である。(磯崎から伝播の櫛生の四ツ太鼓は、紐で結ぶ形式)そこのところは異なる が、構造的にはほぼ同一と考えてよい。
また、組んだ各段の蒲団枠の固定については、伊吹島では、蒲団内部に枠を四方に組み入
れ、その枠同士を固定することにより蒲団枠の一体化を得ている。(確認済みの東部・西部の 太鼓台は、ほぼ同様な構造をしている)
磯崎では、×型に組んだ組み木と、四隅にのこぎり歯状の板片を用いることで蒲団枠の型崩
れを防止している。(下部写真)
両地ともそれぞれの枠の構造には、あまり違いはない。東部太鼓台で見てみると、両端の半月
状の部分と枠の内側の平らな部分は板でできている。蒲団の丸み部分は竹籠編みとなってい て、上から和紙を貼っている。なお、竹籠編みの途中2箇所には型崩れ防止用の桟が組み込 まれているようだ。
磯崎では竹籠編みは見られないが、磯崎からの伝播と語られている櫛生では、竹籠編みがあ
り、編み目は伊吹島・東部太鼓台よりも粗く、途中には桟も確認できた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
(3)磯崎「四ツ太鼓」及び櫛生「四ツ太鼓」との関連
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磯崎からの伝播である櫛生では「竹籠編み」となっている。台足に“そり”を履かせている。“そ
り”状の足を持つ太鼓台も散見される。(平天井型太鼓台/延岡市島野浦島を参照)
(4)熊野市栄町「ヨイヤ」との関連
今年の秋祭りに、紀伊半島・三重県熊野市栄町「ヨイヤ」を見学させていただいた。この蒲団型
太鼓台は各地の太鼓台と深い関連があるので、近々「探訪太鼓台」で詳しく紹介したいが、ここ では蒲団枠についてのみ、伊吹島・東部太鼓台との関連を説明する。
ヨイヤの蒲団枠は写真のように3段になっていて、上の黒蒲団は“1枚もの本物蒲団”で、下2
枚の白と赤蒲団は各辺・四隅が分解できる構造である。これら蒲団枠の中身はカンナ屑を詰 めている。それぞれの“袋”の両端は丸い板を入れていて、これに紐をつけ、お互いを結びつけ 一段の蒲団枠に仕上げる。結んだ状態はさながら“鉢巻・輪”で、「鉢巻型」太鼓台として分類し ている地方と強く関連する。なお、蒲団枠の中心に竹籠を内包しているのも今回驚いたが、他 地域との関連は「フトン考」をぜひ見ていただきたい。
伊吹島・東部太鼓台との共通点は、バラバラの枠片(辺)を一段の枠(輪=鉢巻)に仕上げる、
という点にある。伊吹島及び熊野市栄町とも、普段の時には、枠辺は分解した状態である。栄 町ヨイヤの場合には、「フトン考」の鉢巻蒲団型太鼓台のように、最初から“鉢巻”にはなってい ないことが、蒲団部の発達過程を暗示する何かを感じてしまう。
蒲団部誕生の当初は、持ち運びがよい様に細かく分解でき、大きなものを細分化して運搬でき
た、と思われる。蒲団型太鼓台の<蒲団部変遷過程>を想定すれば、@本物蒲団 A柔かい 鉢巻状(毎年中身を入れ替える) B適当に硬い鉢巻状(型崩れせず、中身は替えない) C分 割型の鉢巻蒲団D分割型の枠蒲団(小型→大型) E各段一体型枠蒲団 このような想定が 可能ではなかろうか。 ![]() ![]() ![]()
(5)伊吹島太鼓台の掛声
太鼓台担ぎの掛声については、「談話室・TBK」(75、76、79、80、82)を参考にして下さい。
伊吹島ご出身の「きちよ」さんからの情報書き込みがありますし、それに対する私見も若干では ありますが、記載しています。
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