天草・富岡 コッコレショ見学記
<熊本県天草郡苓北町富岡(2002.3.17見学)>


プロローグ
天草富岡に太鼓台・コッコデショ(地元ではコッコレショ。以下コッコレショと表記)が伝承されて
いると知ったのは昭和50年、もう25年以上も前のことである。
地理的に近い長崎との関連からその存在を知ったわけではない。天草・島原の乱で荒廃したそ
の昔、同地方へ西国の各地から大勢の人々が移り住んだ。その中には天領・小豆島出身の
人々も大勢いた。若い頃、私は年代や時代背景も無頓着に、「小豆島には太鼓台がたくさんあ
る。小豆島から移り住んだ天草・島原にも太鼓台が伝えられたのではないか?」 そんな当てず
っぽな“予測”をして、町役場へ問い合わせたものと思う。
ところが不思議なものである。ものの見事に“的中”したのだった。それも予想したとおりの、素
朴でいかにも原初的と言うのに相応しい太鼓台であった。(もちろん、単なる偶然の一致でしか
なかったのだが…)
それから何回も見学チャンスを逸し続け、今回ようやく「コッコレショ」に会う事ができた。


写真は20年余り前のパンフレットからコピーしたもので、長年抱いていたコッコレシヨのイメー
ジである。イラストは本年のお祭り見学の折、コッコレショを紹介されていた地元のK・H様から
いただいたもの。(出典は不明)

富岡は江戸期を通じて天草地方統治の中心であった。天草下島の西北部から突き出した半島
の先端には富岡城があった。史跡として整備されている城跡へ登ると、眼下に富岡の町並みと
広大な海原が見渡せる。

古い時代、私の郷里・観音寺(丸亀藩)とのつながりとして、天草島原の乱後に富岡城主となっ
た山崎甲斐守家治は、その後に西讃岐へ転封され三代を丸亀城で統治した。現在の西讃岐地
方は“太鼓台の一大宝庫”であるが、もしかすると、「富岡コッコレショ」とは歴史の奥深い部分
で、意外にも何らかの関連があったのかも知れない。小高い岡に立派な石垣の城跡がある。

祭りまでの行事
「初午奉納スケジュール」として富岡四丁目で作成した資料を、前記のK・H様からいただいた。
(スケッチやコッコレショ紹介資料など、K・H様からのご協力に負うところが大きい。改めて御
礼申し上げます)
それによると、
・2月10日<日籠もり>
・11日<小屋入り>
・24日<櫓組み(道順打ち合わせ、衣類・物品等の注文完了)>
・3月3日<布団針(婦人部)、がぶり初め(青壮年部)、総合練習始め(以降毎日練習17;30
〜)>
・10日<ご案内状配布>
・13日、14日<全員練習>
・15日<練習総仕上げ>
・16日<総合準備>
・17日<コッコレショ奉納>
・18日<反省会>
と長期間に渡り、念入りなスケジュールをこなされている。
※昔は毎年奉納していたと聞いたが、現在ではコッコレショに限らず各町内の奉納が毎年では
なく、3年に一度(かってはそれも中止することがままあった)と言うのも、このスケジュール表を
見ればうなづける。コッコレショを出すためには、経費もさることながら、大勢の人員の確保と長
期間にわたる練習が不可欠で、何よりも地域総ぐるみの団結がなければ、わずか一日の奉納
が完遂できないのだ。 

コッコレショの由来(いずれも出典・確証不十分なるも、資料を引用して紹介する)
(1)江戸末期、富岡の漁師が遭難している堺商人の船を救助して、長崎まで送り届けた。命が
助かった感謝とそのお礼を兼ねて、商売の縁起直しと繁栄を祈念して、漁師を集めてパアーッ
と賑やかに踊りを奉納した際、「これはいけるぞ」とコッコレショを伝授してもらって帰ったのが、
富岡コッコレショの始まり。
(2)長崎・樺島町コッコデショからの伝播で、当時は長崎のものより勇壮な振舞いに全町民が
血を沸かせていた、と伝わる。

富岡神社初午・奉納日の様子
8:00からの安全祈願祭(四丁目)


祈願祭の後、出発前の最初の「放り上げ」 と 乗り子のタスキに結ばれた「御花」

※他地方との共通点
乗り子への「御花」の風習は、堺市・開口神社の太鼓台でも同様な形態で伝承されているよう
です。
(HP「布団バカ倶楽部」http://www1.kcn.ne.jp/~gangsta/ (開口神社八朔祭・新在家濱の乗り
子)を参考させていただきました。布団バカ倶楽部さん、ありがとうございました) ※皆さんの地
方にも同様な慣習等がありましたら、情報をお寄せ下さい。



全高約2.3m、地面から舁棒までの高さ30cm、四本柱間約130cm、舁棒の長さ約3.6m、同幅約2m
(舁棒の組み方は以前の「井形」から「脇棒型」変化している)

乗り子は3人、高欄部に縛りつけられていた。


太鼓に巡らせたロープに足指を掛けバランスを保つ。


※各地との共通点
乗り子を縛りつけるのは多くの地方で共通している。高欄部分を飾り布でぐるりと巡らすのも各
地には多い。この部分が、豪華な地方の高欄掛・高欄幕・掛蒲団など様々な刺繍ものに発展し
ていくのだろうか。太鼓周りの「止まり木」については、四本柱型太鼓台・広島県安浦町のだん
じりと同じである。

富岡稲荷神社での奉納風景(左)苓北病院で入院患者さんを激励。勇気と感動を与える存在だった(右)


区民・協力団体の団結一致で奉納の一日は終わった。
長い練習・準備を経て“完遂”。安堵と満足の顔・顔。

掛声・運行の様子
・担ぎ始めは運行責任者の「アー、ヨイヨイヨイ」で始まり、乗り子がすぐさま「アー、ヨイヨイヨイ」
と応答する。
・太鼓台を担いで歩行する時は、乗り子と采振り・舁き夫とが「アー、ヨイヨイヨイ」と、交互に掛
け合いながら進む。
・コッコレショ体制(放り上げ)の場所が近づくと、運行責任者・舁き夫が「アー、サーキニセー」
(前進指示)、乗り子が「アー、ヨイヨイ」と答え、太鼓台は前進する。
・やがて運行責任者が「アー、アートニセー」と発すると、太鼓台は前進を止め後退し、放り上げ
する場所で立ち止まり状態になる。乗り子は「アー、ヨイヨイヨイ」と合いの手。掛声は2〜3回繰
り返す。
・太鼓台が舁き夫の腰の位置まで下げられると、乗り子は「シャーント、トメタヨナー」と確認の
掛声。舁き夫は「ヨイヤセー、ヨイヤセー」と応じ、放り上げの弾みをつける動作に入る。
・そして乗り子の発する「ヤー、コッコレショ、コッコレショー、ヤー」の掛声もろとも太鼓台を頭上
高く放り上げる。
・投げ上げた舁き夫は、手を叩き、落下してきた舁棒を両手で受け止め、差上げたままの状態
となる。舁き夫・采振り・乗り子が「ヨイ、ヨイ」と一斉に発声する。この時、乗り子の太鼓バチは
カチカチと打ち鳴らされ、顔の上方で交叉する。
・すかさず乗り子は「ヤー、コッコレショー、トナー」と“見栄”を切るような掛声を発する。
・舁き夫は「ヨイヤセー、ヨイヤセー」と応じ、これで一連の所作は終了する。

感じたこと
・長崎のコッコデショでも体験したが、天草でもコッコレショは病院を訪れていた。病院ではない
が笠岡市の神島や各地でも、同様な訪問(老人ホーム)を見た。
・病院の玄関先には多くはない人数であったが、自宅に帰れない患者さんたちが待ち受けてい
た。一通りの演技が終わりコッコレショが立ち去ろうとした時、患者さんたちは声には出さなかっ
たが、大きな拍手と流れる涙でアンコールを訴えた。それを感じ取った運行責任者の方が、再
度演技をプレゼントした。
・そしてコッコレショが病院の外へ出ようとした時、今度は三階の窓からお年寄りが身を乗り出
すようにして「ウオッー」と言うような叫び声を発したのだった。感動と興奮に浸っていたのだ。素
晴らしい光景に出会えた。
・不思議なものである。太鼓台は感動と元気を発する存在なのだ。それを受け止め、感応した
い人々が大勢いるのだ。そして太鼓台に携わる人々も同じなのだ。
・現代社会の中で、太鼓台を活かせることが、何かできないか。人間と太鼓台の共生…今後の
最大課題である。



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