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掛声に“コッコデショ”を採用している太鼓台は、これまでの各地見学でも、それほど多くはなか
った。もっとも、文化圏全ての太鼓台を網羅したわけではないので、軽々に断言はできません。 このホームページを目にされた方々から、「私の地方にも類似の掛声がある」との貴重な情報 が寄せられたならば、掛声“コッコデショ”だけに限らず、太鼓台の各種掛声に関して、探究の 道筋は一気に進展するのではないか、との期待を持っています。
私がこれまでに見学した地方で、掛声に“コッコデショ”を採用している太鼓台は、次の3か所で
した。
(1)長崎市樺島町・コッコデショ…国指定の重要無形民俗文化財<長崎くんち>を代表する蒲
団型太鼓台。樺島町コッコデショについては、「情報玉手箱」に“長崎・樺島町コッコデショ”とし て紹介しています。太鼓台と担ぎ手たちとが見事に一体化(人・台一致)された素晴らしい“踊 り”(担ぎ)は、他地方太鼓台運行の追随を許さぬほど見事で、感動的でさえあります。
(2)熊本県苓北町富岡・コッコデショ…「探訪・太鼓台」にて見学記“天草富岡”を紹介していま
す。長崎からの伝播で、かっては長崎よりも華やかであった、との言い伝えがあります。
(3)兵庫県新宮町千本・屋台…こちらも「探訪・太鼓台」にて小稿“千本”を紹介しています。ま
た、「太鼓台の形態」中に“フトン考”で、鉢巻型太鼓台の類型を探る手法にて、各地太鼓台と の関連を探究しています。
以上の他、未見学ではありますが、次の各地があります。これらの各地についても、資料を通
じ知り得ている範囲で紹介します。
(4)広島県竹原市磯宮八幡宮・ふとん太鼓
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「竹原の氏神祭礼に就いて」(竹秋生)
(前略)
榊を先頭に笛や太鼓や手拍子や幟や子供たちの喜ぶ天狗(ハナ)や或は払魔の青鬼・赤鬼や
獅子や勇ましい蒲団太鼓が数町に亙る長い行列を作ってつづいて行く。(中略)
昔は随分盛んな行列であったもので、時期も最もよい旧八月十五夜・明月の日であった。
(後略)
「蒲団太鼓の歌につき」(竹秋生)
(前略)
明治十一年、四町の当番の時初めて蒲団太鼓を作り、そして此の唄をうたったものだ
そうである。(中略)それがいつとはなしに、いつの頃からか作りかへられて毎年その年の事柄
を歌によみ込むやうになって来た。 今年四町の当番で、私に作るやうにと中村から依頼され て来た時、私は参考にと思ひ前のうたを調べやうとしたが、一つとして記録に残って居るもの
がなかった。 (後略)
以上は<「竹原書院時報・第一号」大正11年10月10日発行>より抜粋
「蒲団太鼓囃唄」(50.11.5 竹原市役所・商工観光課からの提供コピーより)
(前略)
囃唄は、必ず「牡丹に唐獅子、竹に虎…」の一節から始まり、元唄は子守唄であるとい
われているが、いつの頃からか、作りかえられて、その年の事柄をよみこむ様になってきたもの
で、従ってこの囃唄には、その年の世相が反映して、興味深いものである。
(中略)
「昭和50年度 蒲団太鼓囃唄」作詞:藤本十貴男(50.9.5 本川・扇町P連作成)
よーいやな(ア、ヨイショ) しょうこで、しょ(ア、ヨイショ)
よーいやな(ア、ヨイショ) しょうこで、しょ(ア、ヨイショ)
牡丹に唐獅子、竹に虎(ア、ヨイショ)
虎追うて走るは 和唐内(わとうない)(ア、ヨイショ)
まとない人には 知恵かそか(ア、ヨイショ)
知恵は中山、静巌寺(せいがんじ)(ア、ヨイショ)
静巌寺の和尚(おしょ)さんは 坊さんで(ア、ヨイショ)
坊さん鮹喰て(たこ・くて) ゲド吐いた(ア、ヨイショ)
よーいやな(ア、ヨイショ) しょうこで、しょ(ア、ヨイショ)
よーいやな(ア、ヨイショ) しょうこで、しょ(ア、ヨイショ)
牡丹に唐獅子、竹に虎(ア、ヨイショ)
虎の子はたいて 馬買(こ)うて(ア、ヨイショ)
買うた馬券は 大外れ(おおはずれ)(ア、ヨイショ)
外れて家の(ん)中は 火の車(ア、ヨイショ)
車もクロムも 皆公害(ア、ヨイショ)
公害なくそう ドンデンドン(ア、ヨイショ)
よーいやな(ア、ヨイショ) しょうこで、しょ(ア、ヨイショ)
竹原ふとん太鼓の掛声は「しょうこ、でしょ」となっていて、厳密には「コッコデショ」ではない。し
かし、発音の微妙な類似は、コッコデショとの関連を否定するわけにはいかない。私は、同一の 掛声であると思う。また、囃唄全体に流れる尻取り文句の内容・泉州地方をはじめとする多くの 地方との関連等について、今後更に比較検討されてよいと思う。その際には、太鼓台が「明治 十一年の始まりである」との記述は参考になる。
(参考)竹原布団太鼓の紹介されているホームページとしては、「安芸の小京都・竹原」中に布
団太鼓の展示がある。竹原商工会議所のホームページにも以前は詳しく紹介されていたが、 残念ながら現在はなくなっている。
(5)長崎市周辺の太鼓台・コッコデショ(諫早市、大村市、長崎市内数ヶ所)
長崎市周辺の太鼓台・コッコデショについては、「情報玉手箱」で“コッコデショに関する長崎・
熊本両県のインターネット情報”としてリストアップしているのでそれらを参考して下さい。
次に、掛声“コッコデショ”は、どのような場面や所作の時に使われているのかを、見学した(1)
〜(3)の太鼓台について、実際の見学を振り返りながら紹介します。
結論から言うと、この作業は“コッコデショ”と発している3地方(実際は、ほぼ長崎と千本の2地
方)で比較することになるため、“コッコデショ”本来の意味を探る作業になるはずです。
樺島町コッコデショ
諏訪神社の秋祭り「おクンチ」に樺島町コッコデショが初めて奉納されたのは、寛政11年
(1799)のことだとするものが多い。(例外的に寛永11年(1634)とする資料もあるが、それは単
なる間違いと思う) 樺島町には堺船の乗組員達が定宿とする船宿があり、その船乗り達に教 わって奉納したと言われている。そのために、昔は「堺段尻」と呼ばれていた。
記録の上で特筆されてよいのは、かのシーボルトが出島のオランダ商館付の医師として滞在し
た文政期(滞在1823〜1830、シーボルトは晩年にも再来日している)に、細部明細なコッコデシ ョのスケッチが『日本』に載り、西欧まで紹介されたことである。(画家は出島出入り絵師・川原 慶賀と言われる) 当時の諏訪神社々頭での奉納風景が克明に描写されている。
この絵から太鼓台所作の状況を想像してみたい。
(1)(現在の同じ場所での奉納“踊り”との関連からすれば)この瞬間は、放り上げた後に落下し
てきたコッコデショを、パーンと柏手一つを打って、片手で受け止めた瞬間だと思う。また、余り にもすっきりと型にはまり洗練されている様子なので、
(2)これが描かれた時期は、受け入れから既に相当の年数が経過していて、奉納様式も整って
きたことが想像できる。(寛政11年から7年の倍数を加えると文政9年(1826)頃の様子だろう か)
(3)3段の蒲団部・2本の担き棒(長采棒=ナガサイ棒)・担ぎ手の人数が、現在との相違点(=
5段の蒲団部・4本の担き棒・人数の増加=発展の様子)を教えてくれる。
現在の樺島町コッコデショは、担ぎ手と太鼓台が見事に一致した「人・台一致」の感動的披露を
繰り広げている。 放り上げるタイミングを取る“コッコデショ、コッコデショ”の掛声を2度繰り返 し、3度目の“コッコデショー”で放り上げる。平成2年にこのスケッチに描かれた同じ位置からコ ッコデショを見学させていただいたが、“コッコデショ”の本意は、「ここ(この場所)で、(奉納・披 露または放り上げを)しょう」の意味であると思う。太鼓台を放り上げる「場所決め」を、この掛声 で確認すると同時に、次の瞬間の「放り上げ」の合図にしていると思う。
富岡・コッコレショ
天草・富岡が長崎の文化圏内にあることは地理的状況からも十分に想像がつく。現在でも長
崎県彼杵半島茂木港から富岡港まで、天草灘を直線的に結ぶ船便がある。太鼓台(コッコレシ ョ)の由来については、このホームページの「探訪・太鼓台」で紹介しているが、やはり長崎との 関連が深い。ただ、現在の長崎・樺島町コッコデショよりも明らかに小型・簡素であるのは否め ない。しかしながら、シーボルトが『日本』で紹介した当時の長崎・樺島町コッコデショにおいて も、相当に規模が小さな太鼓台であったのは明白である。
そして富岡側では昔語りながら、
「富岡の方が長崎に勝るとも劣らない」旨の言い伝えが残されている。(富岡コッコレショの舁棒
の組み方は、以前は井型であったが、現在では長崎と同様な四本並行型に変化している)
千本・屋台(ヤッサ)
兵庫県揖保郡新宮町千本の屋台については、由来・形状・各地との関連等を「探訪・太鼓台」
にて概要説明している。
ここでは、掛声に関してのみ説明を加えたい。
・細い道を注意しながら、腕を「く」の字に曲げて担ぎ進める時の掛声
指揮者の「カーイナ(腕)ジャ」に続き、「中棒で」(舁き夫)・「しっかり」(乗り子)の繰り返し。
・屋台を差し上げる時
「サーシマショ」
・台足を地面に接地させず、屋台を前後にシーソー運動をさす。
「エンヤサ、エンヤサ」
・屋台を回す。
「マワセ」(台舁きの状態で屋台を回す)
・屋台を地面に下ろす時
「コッーコデショ」(指揮者)・「ソコジャイ」(舁き夫)、
「コッーコデショ」(指揮者)・「ソコジャイ」(舁き夫、舁棒から肩を抜く。
「コッコデ、コッコデ、ヨイトセ」(屋台を地面に据える)
さて、長崎・富岡・千本の掛声・コッコデショの使われ方を眺めてきた。よそ者の私が、現場の実
際の使用シーンから感じたのは、「コッコデショ」は、いわゆる「ここ、でしょう?」(場所を類推す る意味の投げかけ、丁寧語)でも、「ここ、でしょう」(場所決めの同意を求める意味、丁寧語)で もない、ということである。即ち「コッコデショ」は、長崎・富岡では、「コ(ッ)コ、デ、シヨウ」であ り、「ここ(この場所)」で、「(奉納・披露・放り上げを)しよう」「やろう」の意味である。 また、千 本では、太鼓台を「停めよう」「下ろそう」「据えよう」の意味である。3地方とも、担ぎ手集団が、 次の行動に移行する際に「さあ、やろう!」と発する、全体意思をまとめるための合図(掛声)な のである。
次に「コッコデショ」と同様、語尾に「…ショ」がつき、香川県中讃地方の太鼓台の呼称にもなっ
ている「サシマショ」という掛声についても、若干ふれておく必要がある。
「サシマショ」は即ち「差し、ましょう」であり、「コツコデショ」と異なるのは、コッコデショの「ショ
(ウ)」が「しよう・やろう」の意思表示であるのに対し、サシマショの「ショ(ウ)」は、丁寧な言い方 を発展させた掛声である点だ。従って、サシマショは単に「サセ」でも意味が十分に通い合う。 残念ながら、コッコデショの場合は、「コ(ッ)コ」だけでは意味が通じない。後に「デショ」が続い てはじめて明確な「やろう」という全体動作の合図となる。
また、千本に近い播州・淡路・大阪地方で使われている「シズメマショウ」(鎮め・静め、ましょう)
も、太鼓台を停止させ落ち着かせるという意味では、千本・コッコデショの掛声と似た使われ方 をする掛声である。今春、24年振りに再訪した加西市・北条節句祭りの屋台でも、「シズメマシ ョ」の掛声は使われていた。ここでは、差し上げた屋台を一旦肩まで下ろす際の掛声として使わ れていた。(地面に下ろす際には「シズメマショ」は確認できなかった) 掛声「…(しま)しょう」と 言う丁寧語が、勇壮ではあるが粛々と神前に奉納される太鼓台の本意を、よく物語っているよ うに思う。
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