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この蒲団〆は、去る平成14年11月8日〜10日、観音寺市港町・西公民館にて公開されまし
た。なお、同時に「本若太鼓台の歴史」を紹介したパネルも展示いたしました。 ![]() ![]() ![]()
西讃・東予地方ではもう姿を消したと思われていた古い様式の太鼓台の蒲団〆(七ジョウをしば
る装飾刺繍)がこのほど見出され、平成14年10月5日、観音寺市柞田町黒渕・山田神社にて 「蒲団〆・里帰り式」が執り行われました。
この蒲団〆は、明治12年(1879)に製作されたもので、観音寺市柞田町黒渕自治会が所有して
いました。1枚の大きさは、縦約110a・幅約30aのもので、現在のものよりはるかに小振り で、厚みも薄く、刺繍方法にも古い手法を残しています。また刺繍の裏地補強も、現在一般的と なっている補強板を用いたものではなく、厚紙を縫いこんだ珍しい様式となっています。
黒渕自治会では先代に代わり、現太鼓台が昭和57年に新調されました。自治会関係者による
と、この蒲団〆は先代太鼓台の飾りとして、昭和初期には既に使用されていました。しかし、幾 人かの長老の記憶をたどっても、「昔、他の地区から中古品を購入してきた」ことが伝わっている だけで、「どこからの由来なのか」については全くわからないまま、使われなくなった昭和57年 以降は、地区の人々からも忘れ去られ、倉庫の片隅で眠っている状態でした。
ところが昨秋、観音寺市港町の明治28年・1895年生れ、録音当時82歳のお年寄(故人)が、昭
和51年に録音したカセットテープの中で、「私が新若(シンワカ)入りした16歳(明治43年頃)の年、 本若太鼓台が新調された。それまで使っていた龍虎の蒲団〆は黒渕へ売却され、今(昭和51 年当時)も使われている」と語る新事実が確認されました。更に、黒渕太鼓台を紹介したインター ネットのホームページで、その蒲団〆が現存していることも判明したため、両地区太鼓台のつな がりがにわかにクローズアップされることとなりました。
(黒渕太鼓台の紹介ホームページ)「鼠屋」(http://www5b.biglobe.ne.jp/~kunita19/senndaikurofuti.htm)
本若太鼓台側では早速黒渕自治会を訪問し、関係する蒲団〆を見せていただきました。また、
制作年代を知ることが非常に困難である刺繍の鑑定については、何代にもわたり太鼓台の刺 繍をされている著名な縫師・高木一彦師にお願いしました。その鑑定結果やこれまで判明して いる客観事実等から、先代黒渕太鼓台で使われていた龍虎の蒲団〆が、「ほぼ間違いなく、今 より123年前の明治12年に新調し、当時の本若太鼓台(本若太鼓台の製作判明順は、昭和 59・昭和9・明治43・明治12年。これ以前は不明)に飾られていた蒲団〆である」ことが結論づけ られました。
ここから両地区の話し合いは急転しました。両地区の会合では、「貴重な歴史遺産をこのまま消
滅させてしまっては太鼓台の歴史を後世に伝えられなくなる。できるならば、関係する双方の地 元で保存継承することとし、ガラスケースの額装にすれば、いつでも誰でもが鑑賞できるので は」との方向性が話し合われ、
(1)現存する蒲団〆を両地区で分け、双方の自治会館や太鼓蔵など公の施設に展示・掲額す
る。
(2)両地区の友好と製作された歴史の証しとして、額縁に<黒渕太鼓 SINCE 1879 本若太鼓>
を表示し、永く後世へ伝える。
との内容が取り決められました。
120年余を経た龍・虎の蒲団〆はあちこちで金糸がほころぶなど、さすがに痛みが激しい。し
かし、かってなかった激動の時代を生きてきた証しを、古くてもいい、ありのままを私たちに見せ てくれてこそ、この地域の文化遺産として真価を発揮するはずです。
これまで太鼓台の各種装飾は、古くなれば消滅することがほとんどでした。今回かろうじて関係
の深い地域で後世へ伝えることができ、両地区関係者は、ほっとする安堵の気持ちと同時に、こ れから永く続く遺産継承への責任の重さを痛感しています。また、同様なケースが今後も各地 区で想定されることから、今回の事例が「保存・継承への一方法として布石になれば」と念じて おります。
●制作年代確定にあたって
製作年代の書かれていない「現物」を前にして、ピンポイント式に年代を言い当てることは不可
能です。そこで今回のケースの場合には、これまでに判明している客観事実をメインにして、地 元最長老のお年寄りの証言、著名な縫師で、本若太鼓台の製作に何代にもわたり深いつなが りのある観音寺市・高木一彦師に「鑑定」をお願いしました。
以下に年代確定に至った経緯について、箇条書的に略記します。
(1)判明していた客観事実等
@明治28年生れの本若地区古老(故人)の証言
昭和51年5月、古老の同輩3〜4人と共に、「昔の本若太鼓台」について語っていただいた。そ
の中で、「新若入りの16の年、本若が新調された。それまで使っていた龍虎の蒲団〆は黒渕へ 売却され、今(昭和51年当時)も使われている」発言があり、これが大きな決め手となった。
A本若太鼓台の古い掛蒲団箱が昭和52年当時、三豊郡豊中町上高野・福岡太鼓台で現存し
ていた。それには「明治十弐年 卯旧八月吉日 本太鞁 南本若」と書かれていた。その掛蒲団箱 と共に、掛蒲団は勿論、蒲団〆、幕も使用されていて、特に幕の“乳部分”には「本」が縫われ ていて、一目で本若のものと判断できた。
ただし、つい最近までは掛蒲団の「明治十弐年」に気を取られすぎ、この当時の福岡太鼓台が
“明治12年の本若太鼓台”である、と考えていた。
B古老の証言にある「明治43年に新調」した刺繍の存在が、実は福岡太鼓台で用いられてい
た刺繍であった。福岡太鼓台へ至るまでの当該刺繍の伝播経路は、本若→大野原町中姫地 区→福岡地区 と伝えられたことが明らかです。
C黒渕地区側の証言
・百歳の古老(本年他界されました)にお会いし、いろいろと記憶を思い出していただきました
が、「もの心ついた時から、龍虎の飾りであった」とお話しいただきました。
・多くの長老から、「昭和初期には既に龍虎の蒲団〆であった」とお話しいただきました。
(2)木縫師の鑑定
当日は、龍虎一対の蒲団〆を持参して、詳しくご覧いただきました。また、本若太鼓台の関連
パネルや、一地方の一太鼓台としては、奇跡的にも明治時代を通じて制作年代が明らかな三 通りの刺繍(〆×2組、水引幕×1枚)を伝えている詫間町・箱浦太鼓台の記録写真等(情報 玉手箱・箱浦太鼓台を参照)をご覧いただきながらの、長時間にわたる作業となりました。
その結果、高木師からは、概ね以下のご教示を賜ることができました。
@黒渕太鼓台で使われていた龍と虎の蒲団〆は、一緒に作られたものと思われる。
A蒲団〆がまだ金色を保っているのは本金を用いているためで、縫の現状からは保管状態の
良かったことが想像できる。
B「金糸がまだきれいだから、蒲団〆の作られた年代は新しいのではないか」と言うのは当て
はまらない。「年数が経っているのなら、金糸は黒ずむはず」と言うのも、多くの場合、経済的理 由により本金を使えなかった刺繍に、よく現れる現象である。本金刺繍は、保管状態が良好で あれば、百年くらいで黒ずむことは、まずない。
Cピンポイントで制作年代を言い当てることは無理だが、刺繍技法の変化や発達がどうであっ
たかならば判る。龍の「クシャ」(髭のこと)部分に採用されている縫い方「平縫(ひらぬい)技法」 が、制作された年代推考のキーポイントになる。
Dより新しい時代のクシャは肉盛を用い厚く仕上がっているが、だんだん古くなると肉盛が小さ
く薄くなり、更に古い時代には薄っぺらな仕上がりになっている。…この古い技法・平縫とは、 縒(よ)りをつけた金糸を、「ト糸」(トイト)と呼ぶ赤糸で平たく留めていく縫い方である。
E龍のクシャ部分が平縫であることは、制作年代の古さを偲ばせる。しかしながら、龍尾などを
除いた他のほとんどの部分が肉盛の技法を採用しているので、旧・〆は、現在各地で一般的と
なっている「全てが肉盛技法」以前の、「一部に平縫技法」を残した、「過渡期的な時代」に作ら れたものではないかと思う。
F刺繍の補強には現在のように板ではなく、馬糞紙(=厚紙)を採用しているので、そのことか
らも古いことが判る。
G制作年代の判明している箱浦太鼓台の二代の蒲団〆(明治8年頃のものと明治41年製の
もの)及び水引幕(明治29年製)の拡大写真(箱浦太鼓台拡大写真参照)を丹念に観察され、 「明治8年頃のものは頭部の一部を除き龍全体が平縫であること、明治41年のものは全体が 肉盛であること、明治29年の水引幕は頭部が肉盛で龍尾が平縫であること」、を指摘されまし た。
H「クシャが平縫、龍体ほとんどが肉盛技法」の持参した蒲団〆制作年代の推考には、箱浦太
鼓台で判明している各刺繍の制作年代を、大いに参考にする必要がある、との考え方を示され ました。
Iそして、「製作された年代は、明治初めまでは遡れないと思う。補強に板を用いた箱浦の明
治41年の蒲団〆より間違いなく古いが、明治29年の水引幕に近い年代のものではないか。 ただ大きさ・厚み等、規模が小さいので、それよりも古いと思う」、との鑑定結果をいただきまし た。
Jまた、Iの変動要素として、「明治8年頃のものといわれる箱浦太鼓台・平縫の〆は、(木
師が)これまでに見たことがないほどに古い様式なので、実際の制作は明治以前にまで溯るか も知れない。そうなれば今回の蒲団〆の制作年代推定にも影響し、明治10年頃にまで早まる こととなるかも知れない」、「明治12年製というのも当然あり得る」との言葉を付け加えられまし た。
他の大きな神社同様、観音寺・琴弾八幡宮でも明治5年に氏子域の縮小がありました。お祭り
の規模を維持するためか、明治6年頃から14年の間に各太鼓台の"新調・改造ラッシュ"のあ った事実が、最近になり少しずつ解ってきました。
4号・上若…明6頃(太鼓の胴内)
3号・殿町?…明8頃(刺繍の見積り)
2号・本太鞁(南本若、掛蒲団箱)…明12
5号・坂本…明14(掛蒲団箱)
旧・本若太鼓台の蒲団〆も、明治12年の掛蒲団新調と同時かその幾年か後に、観音寺太鼓
台発展の変革期に呼応する形で"新調"があったはずです。今回の高木師による鑑定結果は、 これまで唯一の根拠であった、本若地区の古老(明28生れ)の言、「本若の〆は、黒渕へ」を、 ほヾ確実に裏付けました。 ![]() ![]()
(追記)その後、文化6年(1809)に観音寺に太鼓台が存在していた古文書が、新たに見い出さ
れました。それによると、その頃既に大人用の太鼓台以外に「子供ちょうさ」をも所持していたこ とが判明しました。
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