|
<はじめに>
去る2005年3月22日から4月2日までの間、香川県観音寺市制50周年記念の一環として市
立図書館2F多目的ホールで開催された「愛しき太鼓台とその遺産」展には、太鼓台文化圏各 地に散らばるさまざまな太鼓台の写真と共に、燧灘に浮かぶ伊吹島をはじめ市内各太鼓台 の、現時点で展示可能な古文書類や古い装飾品が多く展示されていた。その中で、市の東に 接する山本町・旧大辻太鼓台で用いられていた昼提灯も出展されていた。県外から訪れた方 の中には、「この昼提灯に出会えただけでも、ここへ来たかいがありました!」と興奮気味に話 される方もおられた。しかし観音寺市の太鼓台で使われてきた装飾ではなかったためか、正面 奥のメインの場所に展示していたにも関わらず、興味を示したり立ち止まる方は意外と少なか った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
確かに、昼提灯についてはなじみが薄い。現在、四本柱四隅の飾りとしては大きな房を吊下げ
るのが、三豊・観音寺・東予等の四国北岸では一般的ではある。ただ、琴平をはじめ、2004 年春に香川県歴史博物館で展示された詫間町箱浦の屋台、徳島県山城町大月の太鼓台等を 例に出すまでもなく、大阪府や兵庫県などの太鼓台と同様、過去においてはこの地方でもかな りの太鼓台に昼提灯は採用されていた。その形状は、簡素なものでは球状、豪華になると円筒 状になり刺繍も豪華になってくる。 ![]() ![]()
今回展示された旧大辻太鼓台の昼提灯は、過去・現在を通じ、「この文化圏に登場してきた“昼
提灯たち”の中でも、間違いなく素晴らしい第一級の作品であった」と私は言い切る。凝視すれ ばするほど、勢いのある獅子と牡丹の風合い、全体のバランスと細部に行き届いた完成度の 高さ。少なくとも私が各地で見た昼提灯の中に、これ以上のものにはお目にかかったことがな い。
<筒内部・墨書の語るもの>
昼提灯を眺めると、提灯の“鉢(はち)”と呼ばれる上下の輪の部分には、黒ラシャ地に細やか
な龍が刺繍され、提灯の胴本体には獅子が2頭と咲き誇る牡丹及び橋が、厚地の緋ラシャに、 橋が螺旋を巻くように斜めに配され、大胆な構図で見事に刺繍されている。
旧大辻太鼓台で、昼提灯が四本柱四隅の飾りとして使用されていた晩年以降、刺繍は激しい
痛みのまま推移していた。私達の眼前にほぼ制作時に近い美しさが蘇ったのは、ある個人の 方の努力に負うところが全てである。彼、坂出市在住の某氏は、ボロボロになっていた旧大辻 太鼓台の昼提灯を見出し、「素晴らしいもの・繊細な出来映えの遺産を、何とか後世へ残し伝 えたい」の一念で、困難な修復作業に取り組まれたのである。縫部分は記録に残し全てを丁寧 に分解され、長く垂れ下がった金糸を一本一本留めていき、肉盛の古綿類を新たに足さずあり のままにし、押さえの和釘の位置穴さえも違えず、全く忠実に修復し、更には分解作業の中で 筒内部の墨書を発見されたのである。 ![]() ![]()
筒内部には、
「讃州琴平 金山寺町
松里庵(しょうりあん)
縫し
定治朗
定七 (等)
愛媛縣」
などの文字が読み取れる。
この墨書は以下の事柄を物語っている。
製作場所は「讃州・琴平・金山寺町」で、製作者集団として「松里庵」(屋号)の「定七」を含め6
名が関わっている。また、制作は「香川県が愛媛縣であった時代の明治9年(1876)から明治21 年(1888)の間」である。制作時期特定はできないが、最も新しいとして、明治21年からは117 年が経過していることになる。
また、「松里庵」や「定七」というのは、琴平から観音寺へ進出してきた現在の高木刺繍店・初
代・定七師(安政元1854〜大正91920)のことであり、彼「定七」師は、「松里庵」を称して、新居 浜・西条方面との販路を拡張するため、琴平から船が利用できる“観音寺へ進出”した。
<松里庵に関して>
「松里庵」とは、琴平・松尾寺の「松」、その「里」、の「庵」(いおり)という大意であろう。この「松
里庵」について知りたいと思い、琴平町立歴史民俗資料館を訪れたことがある。同館は、金毘 羅歌舞伎でよく知られる金丸座が、幕末期(天保6年1835)から山腹の現在地へ移築復元工事 の始まる昭和47年まで建っていた場所である。(現在地への移築復元工事は昭和51年4月 に完成。なお、金毘羅の芝居小屋の歴史は更に古いが、詳細は省略)
資料館を訪れ松里庵のことをお尋ねすると、意外にも意外、「すぐ近くにありますよ」とのこと。
かっての芝居小屋の裏通りを山手に進むと「松里庵」の看板が目に入った。早速お家の方にい ろいろとお尋ねする。「料亭をしていたこと。幕末には琴平へ落ちのびた高杉晋作を、料亭・松 里庵の当主が地下室に匿ったこと」などを話していただいたが、「縫(刺繍)をしていたことは聞 いたことがない。観音寺に親戚があることも知らない」とのお話であった。
一方観音寺の太鼓台刺繍店「松里庵・高木家」の高木一彦師や奥様も、「親達から、昔先祖が
琴平に住んでいた折り、高杉晋作を地下室に匿ったことは、何度か聞いたことがある」と話され ました。いずれにせよ、話の符丁や更には木家に「定七」師の位牌があることから、旧大辻 太鼓台の昼提灯筒内部に書かれていた「松里庵」や「定七」は、観音寺・高木刺繍店の初代で あることは間違いないようである。ただ、大正9年(1920)に没した「定七」師がいつ頃に観音寺 へ来住したかについては、残念ながら現時点では定かでない。
<昼提灯、題材は何?>
縫われていた「獅子・橋・牡丹」をキーワードに、改めて昼提灯の題材について、周辺情報を収
集した。その結果、能・歌舞伎・長唄などで舞われる「石橋(しゃっきょう=さっきょう)」が、思い もかけず検索の網にかかった。現在の解説書などでは、「石橋」を"しゃっきょう"と表記するも のがほとんどである。ただ、後述する弘化3年(1846)の浮世絵説明書には"さつけう"と振り仮 名されていて、これは間違いなく"さっきょう"と発声していたはずである。旧観音寺町内の奇数 号太鼓台の関係者の中にも、用いられている自分たちの蒲団締のことを単に「さっきょう」と言 う方もいらっしゃるし、大多数の方は、「扇咲競」と書いて"おおぎ・さっきょう"と発音もしている。
付記) @「さっきょう」への発音変化 石橋→「せき・きょう」→「せっきょう」→「さっきよう」(観音寺一高・F
先生アドバイス) A「石橋」の日常シーン…寺社の境内と一般道等を隔てている小川等に架かった「石 の橋」が、故事「石橋」を踏まえた存在か。即ち、<境内地=聖地、橋の手前のエリア=俗世間>を石橋 で隔てている。
それでは、「石橋(さっきょう)」とは何なのか。
![]() ![]()
「石橋(さっきょう)」の話は、こうである。
○能「石橋(しゃっきょう)」…長唄CDの説明文から引用
牡丹に戯れる獅子、華麗な祝言の舞
文殊の浄土の清涼山で寂昭法師が、石橋の傍らで童子に会う。童子は石橋の由来や故事を
語り、石橋の向こうが浄土で、ここに居れば奇特があると告げる。
はたして、文殊浄土の愛獣とされる獅子が現れ、咲き匂う牡丹の花に狂い戯れてみせる。
(注:石橋で会うのを童子ではなく、樵夫(きこり)とする舞踊もある)
また、以下は「人形細工人大江宗七の生人形摺物」(弘化三年1846春 早稲田大学坪内博士記念演劇博物
館 デジタル・アーカイブ)の解説文として、人形の浮世絵の説明として記載されていた内容。 ![]() ![]()
○石橋(さつけう)
唐土(もろこし)清涼山(せいれうざん)に石橋(さつけう)あり。其面(そのおもて)僅尺(わずかし
ゃく)に足(たら)ず。長さ三丈(さんじょう)余。谷の深きこと千丈余(せんじょうよ)ありとぞ。
是(これ)を謡曲(ようきょく)に作(つくり)て猿楽(さるがく)の舞とす。然(しか)るを又(また)歌
舞伎狂言に取組(とりくみ)て。所作事(しょさごと)に勤(つと)めし姿を木偶(もくぐう)に模造(う つしつくり)しなり。尤此石橋(もっともこのさつけう)の謡(うたい)は。文殊(もんじゅ)の浄土(じ ょうど)に比して作(つくり)し深作意(ふかきさくい)にして。双(ふたつ)の獅子は文殊に表(あら わ)し。金胎両部内外(こんたいれうぶないげ)の獅子を象(かた)とりし者(もの)と云(いへ)り。 故(ゆえ)に通例(つうれい)の芸にあらざれば。深き秘事(ひじ)ありて。役者(やくしゃ)も勤(つ と)むるに容易(たやす)からざる奥儀(おうぎ)とす。 (ほぼ原文のまま)
<扇獅子のこと>
更に「石橋・扇」で情報収集すると、舞踊で使われる小道具として「扇獅子」なるものが市販され
ていることがわかった。紅・白のものがあり、2枚の扇を重ね、広げた扇の先端には鈴がついて いる。扇の上には紅・白の牡丹が飾られている。獅子の油単に似せた布地を扇に取り付けて いる。 ![]()
牡丹をつけた扇は、「獅子頭」なのだ。文殊菩薩の愛獣(一説には文殊菩薩の化身)を意味す
る獅子は百獣の王と言われる。百花の王(牡丹)との組み合わせ。獅子は牡丹を好み食する。 古くから「牡丹に唐獅子」(竹に虎、と続く)と称される所以である。
<歌舞伎衣裳・下絵のこと>
以上のように、扇は獅子(頭)を表していることが理解できた。次ぎに、@扇を獅子とストレート
に見立てている図柄、更にAもっともっと庶民が身近に接したであろう図柄、或いは絵心を持 つ職人たちがお手本にしたであろう図柄、を探した結果、偶然にも下の歌舞伎衣装の下絵に出 会うことができた。 ![]() ![]() ![]()
掲載されていた『イキマの美 播州祭屋台宝鑑』(粕谷宗関著)では、播州歌舞伎(本拠地は現
在の兵庫県加西市東高室地区)で伝承されている下絵であるという。播州歌舞伎は西日本を 中心に活躍していた地芝居集団の総称であるが、もちろん下絵(集)については、江戸や上方 の歌舞伎との接点も推察される。更に、他所へ巡業へ行った際などには、伊吹島の「ちょうさ襦 袢」(和唐内の虎退治)の由来(巡業同行の絵師に描いてもらった)のように、地方廻りの旅役 者一団にもこの下絵(集)のごときお手本があったのではないか、とも推察できる。
歌舞伎衣裳の醍醐味は何と言っても刺繍にあるといわれる。これらの「歌舞伎衣装・下絵・刺
繍」を関連付けると、どうしても避けては通れないのが、金毘羅歌舞伎・金丸座である。そこに 集結し活躍する絵師や縫師(縫箔師)などの職人たちは、すべての分野で太鼓台の装飾製作 に密接につながってくる。例えば、芝居小屋に掲げられていた歌舞伎の名場面や役者絵(表情 をも含めて)などの "まねき(絵)"からは、水引幕や掛蒲団などの"素材"になったであろうこと が容易に理解できる。
天保時代の金山寺町の様子を紹介した『近世の芸能興行と地域社会』(神田由築著・東京大
学出版会)には、金丸座のすぐ裏手に「白川 縫」とか、小道を挟んだその前に「高木屋」などの 記載がある。たまたま火事の状況を調べた金光院『日帳』に書かれていたものであるが、芝居 という歓楽と総合芸術を提供し下支えしていた職人たちのネットワークが想像されてくる。
<輪違い紋のこと>
『イキマの美 播州祭屋台宝鑑』に掲載されている石橋(さっきょう)の下絵には、重ね扇の下に
"輪違い紋"の一部が見えている。また、琴弾八幡宮奉納・3号酒太鼓台の蒲団締にも、同様 の紋が黒糸の下に隠れている。この蒲団締の「扇・輪違い紋・長い黒糸」と、下絵の「扇・輪違 い紋・振り乱す毛」とは、デザイン的には上下逆の配列になるが、ほぼ同一であるとみなしてよ い。(蒲団締の長い黒糸は,獅子の荒々しく渦巻く毛を表現しているのは明白である)要は、観 音寺奇数号太鼓台の扇を用いた"さっきよう蒲団締"の成立には、何らかのかたちで歌舞伎衣 裳の下絵が強く影響していると見なさざるを得ないのである。
また、"輪違い紋は何か"ということになるが、この紋は牡丹寺として古くから有名な大和・長谷
寺(はせでら)の寺紋である。長谷寺は真言宗豊山(ぶざん)派の総本山であるため、同宗派の 宗紋としても知られている。輪違い紋は牡丹を意味し、獅子頭である扇の上の牡丹花と共に、 「唐獅子・牡丹」を幾重にも強調していると、私は想像する。ただ、何らかの信仰的宗教的意味 合いが、この下絵や蒲団締に込められいるかというと、私にはよくわからない。 ![]() ![]()
<「扇さっきょう」は"扇咲競"ではない。実は「石橋(さっきょう)」>
![]() ![]() ![]()
ここまでくれば、琴弾八幡宮の奇数号太鼓台の蒲団締が"扇が咲き競そう"咲競(さっきよう)で
はないことが、理解いただけると思う。まちがいなく"石橋(さっきょう)"蒲団締である。なお7号・ 上市太鼓台の蒲団締(旧)も、蒲団締下部に牡丹と黒糸が備わっている。
それでは、観音寺ではいつ頃の時代から石橋蒲団締を採用するようになったのか。残念なが
ら、この件に関しては何一つわからず、今後の課題である。
私が密かに期待するのは、このホームページを見られた他地方の方から、“私の地方にも同様な
ものがありますよ”という若干の甘い期待である。もちろん、太鼓台に限ったことと言うつもりは ない。山車や屋台の装飾に、同様の「石橋」(さっきょう)が採用されているはずである。それら に比べると、太鼓台文化は、あくまでも“後発”の祭礼文化であり、刺繍などの装飾にも援用さ れていると常々思っているからである。
次に、観音寺・石橋蒲団締の成立に影響あると思われる幾つかの要素を参考として列記する
と、
・観音寺では太鼓台の出来た順番に、1号.2号.3号…と付与され、奉納された。(言い伝え)
・かっては現在の2号が1号であった。ちなみに2号の蒲団締は「龍・虎」である。
・3号酒太鼓台と思われる太鼓台が、文化6年(1809)当時に存在していた。
・明治8年頃、3号の装飾を大阪で見積もっている。
・明治14年、5号坂本太鼓台の掛蒲団箱(三越納)が現存する。(掛蒲団の「敬神愛国」の書
は、大阪の書家に書いてもらった)
・7号上市太鼓台では、明治34年頃に太鼓台を新調している。(7号は長く殿(しんがり)を務め
た)
・高木定七師が琴平から観音寺に進出する。(明治20年代以降?)
・「石橋」の浮世絵は、少なくとも文化12年(1815)以前にも存在している。(本稿紹介の「牡丹
の石橋」)
<「石橋(さっきょう)」は太鼓台蒲団締の大型化に影響を与えたか>
以下はあくまでも推論でしかないが、もし“石橋(さっきょう)蒲団締の登場”と「龍や虎の蒲団締
の登場」とが同時代のものか、それ程開きのない時代であったと仮定すれば、石橋蒲団締は蒲 団締大型化の一翼を担ってきたものと思う。なぜなら、龍や虎の蒲団締では刺繍を縫い付けて いる帯部分より幅広いものではなかったと思われるからである。帯に巻きつく龍図のものもある が、蒲団締にそれらが採用された初期の段階では、原則的に“帯の幅で収まる”範囲の蒲団締 であったと思われる。
石橋蒲団締では、登場の最初から既に“帯の幅を超えた”形態を採用していたのではないか。
扇は複数枚といっても、2枚である。これは図柄的にも決まっている。蒲団締を細長く見せるた めに、牡丹を扇の下部に配している。更に黒糸を長く垂らしている。出来るだけ龍や虎の蒲団 締のように縦長く見せようとしても、広げた扇を採用すれば、どうしても横幅が広くならざるを得 ない。
石橋蒲団締と龍・虎蒲団締が混在して導入された観音寺の場合、“より見栄えのよいもの”へ
のこだわりは、今も昔も変らないと思う。以下に引用した各地の蒲団締は、明治初年のものが 多いが、この間の事情をよく物語っていると思う。中でも、2号本若太鼓台の場合には同様な図 柄であっても、明治12年頃制作の蒲団締は帯幅に収まる横幅であり、明治43年に拵え直し たものは明らかに幅をはみ出している。(もちろん明治後半になると、四国北岸ではこのような 幅広い蒲団締が主流とはなる) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
<おわりに>
今回幸運にも、山本町・旧大辻太鼓台の昼提灯をじっくり鑑賞することができた。素晴らしい作
品を通じ、観音寺・奇数号太鼓台の蒲団締“謎”解明に一歩近づけたと思う。
そして、「扇咲競」(扇が咲き競う・さっきよう)ではなく、「石橋」(さっきよう)なのだ、ということを
確信した。
また、刺繍を多用し独特の豪華さを備えた歌舞伎衣裳との関連は、太鼓台装飾を考察する際
には絶対に避けては通れないものと考える。常小屋で興行した金毘羅歌舞伎、西日本各地へ 巡業した播州歌舞伎の多くの座、或いは九州大分県にも地芝居集団があった。
太鼓台発展の草創期、縫師(縫箔師)と絵師や歌舞伎衣裳の刺繍との関係は、太鼓台装飾に
も大きな影響があったはずである。この方面からの探究が、豪華な太鼓台を今に有する私たち に課せられた大きな使命であると痛感する。
|