手話って誰がいつ作ったん? | |
「日本語は誰がいつ作ったん?」と聞かれてもうまく答えられへんね〜。手話もそれと同じやねん。たぶん人間が地球に生まれた頃、まだ言語がない頃から身振りやしぐさ、顔の表情といったコミュニケーションはあったと思うけど、手話はちゃんと文法がある言語やから、ちょっとちゃうかなぁ。 |
世界で初めてできた「ろう学校」 | |
18世紀中ごろ、フランスにシャルル・ミシェル・レペという神父さんがいました。ある日たまたま立ち寄った家に双子の女の子がいましたが、話しかけても、その子たちは何も答えてくれず、無視して裁縫仕事を続けていました。はじめは失礼な子供たちだなと思いましたが、お母さんが帰ってきて、二人の娘が耳が聞こえず話しもできないということを知りました。それがきっかけでレペは二人が使っていたサインにフランス語の単語をあてはめフランス手話を考案し彼女たちに教育をしました。それは評判を呼び。すぐに40人ほどの生徒が集まったそうです。1754年パリに公立のろう学校が開校しました。 |
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日本では古河太四郎先生らがろう学校を作りました | |
日本でもレペと同じように聞こえない子達の教育に力を尽くした人たちがいっぱいいました。 |
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1873年(明治6年)「いんあ教場」![]() |
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京都の上京区の十九番校(旧待賢小学校)の教師をしていた古河太四郎は十九区長の熊谷伝兵衛の隣の家に住むろうの姉弟の教育を相談されました。以前から聞こえない子供たちに何かできないかと考えていた古河は熊谷の協力で学校内に「いん唖教場」を開きました。 |
1878年(明治11年)京都に盲唖院(もうあいん)開校![]() |
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1878年(明治11)5月24日、旧生糸改会所(旧大丸)建物を仮校舎として盲唖院(もうあいん)が開校されました。(聾唖生31名,盲生17名)開院式当日は雨にもかかわらず3000人の府民が駆けつけたといわれています。 |
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1879年(明治12年)京都府立盲唖院が開校![]() |
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1879年(明治12)に正式に府立学校となり,府庁前に移転しました。日本最初の公立の盲学校・聾唖学校として京都府立盲唖院の誕生です。1925年(大正14)まで人件費以外は,すべて寄附金に頼り,府市民や皇族の慈善により維持されたそうです。 |
ろう学校なのに手話禁止?! | |
盲唖院では手話(その頃は手勢法と呼ばれてました)や筆談や口話(口の形を読み取る方法)を組み合わせ、一人一人に合った方法で教育が行われていました。このやり方をみならって、その後、日本各地でろう学校が開校されました。 しかし1880年のイタリアのミラノで開かれた第2回ろう教育者会議では手話法は口話法より劣っていると口話法が採択されてしまいました。それをきっかけに世界のろう学校では手話を禁止し口話法へと変わっていきました。 日本では宣教師だったオーガスト・ライシャワー氏が1920年(大正9)日本聾話学校を創立、欧米の口話法を取り入れた教育をはじめました。(ライシャワー氏の娘さんは幼い時に聴覚を失われたそうです。元駐日米国大使のエドウィン・ライシャワー氏のお父さん)やがて日本でも口話法が主流となり、多くのろう学校で手話は口話の習得の邪魔になると禁止されるようになりました。しかし子供たちは先生に隠れて手話を使い上級生から下級生へと手話が伝わっていったそうです。ろう学校なのに手話禁止ってなんか変な感じやね。そんな中で大阪市立ろう学校の高橋潔校長は最後まで手話を守り抜きました。漫画「わが指のオーケストラ」(山本おさむ著)をぜひ読んでみてくださいな。そのあたりのことが詳しく描かれています。 1993年、文部省が「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議」の報告の中で、やっと手話の必要性を認めました。手話を禁止するろう学校は少なくなったけど、手話を使って授業をしているろう学校はまだまだ少ないらしいです。 実は手話ができないろう学校の先生って、結構多いんです(>_<") |
これからの手話 | |
これからの手話はどうなるんやろね。何年か毎にテレビドラマなどの影響で手話がブームになったりしますね。たくさんの人が興味をもってくれるのはとってもうれしいです。最近は小学校の授業などでも手話を取り上げたりしているそうです。ぜひこれをきっかけに簡単な手話なら話せるぐらいに、みんなが手話を覚えてくれたらええのにな。。 これからの手話の歴史はみなさんが作っていくんかも(^^♪ |