特別寄稿 〜うにゃ子の夫が語る、我が家の捨て猫騒動のこと〜
それは今から7年近く前の事でした。その頃、私は出身大学の眼科医局を辞め、田舎に家を新築して開業したばかりでした。次男もどうやら無事に生まれ、忙しく毎日を送っていた頃の事です。
ある晩家に帰ってみると、なにやら小さなネコの鳴き声がします。台所を見ると、ふわふわとした小さな白い赤ちゃんネコが、ミルクに浸した食パンを一心に食いあさっているところでした。
「これは一体なにかな?」
私は妻に訊きました。我が家ではその頃次男が生まれたばかりでしたので、不潔になりがちだし時間の余裕もないので、ペットはまだ飼わない、と決めてあったからです。
「だってしょうがなかったのよ。殺されちゃうところだったんだから」
妻が言うには、二、三日前より、自宅の近くにある原っぱのどこかから、捨て猫の声らしきものが聞こえる、そう近所で評判だったとのことですが、その日、妻がその原っぱの近くを通りかかると、一匹の仔猫が、数匹の犬の群れに取り囲まれていたのだそうです。
仔猫は小さいながらも、その体全体の毛をいっぱいに逆立てて周りの犬を威嚇していたそうですが、今にもやられてしまいそうなので、夢中で犬を追い払い拾って来てしまった、との事でした。
「そう切羽詰ってたわけじゃなかったかも………もしかするとじゃれあってたのかも知れないし、犬とお友達同士だったらどうする。とにかくうちじゃ猫を飼うつもりはないんだからね」
私は言いました。実は私は今までに猫を飼ったことはなかったし、自分の性格は“犬型”だと思っていましたので、はっきり言って猫は苦手でした。その上、“猫のような性格の女性”にはずっとひどい目にあわされ続けてきた(笑)からです。
「わかってるわよ。そのうち里親を見つけて飼ってもらう事にすればいいでしょ。それにこの子、ノミだらけでひどく汚れていたからさっき洗ってあげたの。よく見ると真っ白で可愛いネコでしょ」
可愛いからどうした、という問題じゃない、それに何だってんだよ、『この子』ってのは。私は続けて言いたかったのですが、仔猫を見つめる長男の心配そうな表情を見ているとそうも言えず、つい私もその晩、コンビ二にペット缶詰・仔猫用というのを買いに行ったりしてしまったのでした。
二、三日経つと仔猫はだいぶリラックスしてきたようです。ふわふわした白い体を抱くと、私のシャツに噛み付いたまま目をつぶり、前足で胸元を揉み込むような仕草を繰り返して甘えるようになって来ました。
「おい、台所の隅に置いてあるのは、ネコ砂入りのトイレじゃないか。どうせもうすぐいなくなるっていうのに、怪しい品が多すぎないか」
私は妻に文句をつけました。どうも何となく、よくない予感を感じていたからです。
「いなくなるネコでもトイレには行くのよ。もらってくれる人が現れたら一緒に付けてやろうと思っているんだから。それにあなたは冷たいのよ。この間の事にしたって、この子の兄弟は犬にみんな噛み殺されていたんだから」
妻と子が言う事には、後日仔猫を拾った場所に行ったところ、その兄弟と思われる仔猫の死体を見つけたのだそうです。
そう言われるとこれ以上強く言う事は出来ませんでした。窮鳥懐に入れば…などと呟きながら、その日は私が風呂に入れ、ネコ用シャンプーで洗ってあげたのでした。
妻も最初からさぼっていたわけではありません。近所のつてをたどって仔猫の里親捜しをしたのですが、なかなか見つからないのに業を煮やした私達は、医院の待合室に写真入りポスターを掲示して、貰い手の募集を始めました。
一週間ほど経つと、仔猫はすっかりリラックスし、家の中でいろいろといたずらを始めました。特に困るのはまだ子供で手加減を知らないため、足にじゃれつかれたりすると相当痛いことで、うっかり裸足で立っていたりすると、後ろから襲われて悲鳴と共に血しぶきが飛んだりします。
「こいつ、全然恩を感じてる様子がないぞ。すごく狂暴だし。それに一体いつ貰い手が見つかるんだ」
私は顔をしかめて痛みに耐えながら妻に尋ねました。
「もうすぐよ。それに可哀想だと思わないの。この子は生まれてすぐに親と引き離されて、兄弟達はみんな犬に殺されたのよ。この子は生まれ持った気丈さで只一匹生き残ったんだわ。そう、背負ってるものの重さが違うのよ」
そう言われると無碍に叩き出すわけにも行きません。確かにこいつは天蓋孤独の不憫な身の上で、しかも背負っているものの重さが違うというすごいネコなのかも知れません。
やがて疲れて居眠りを始めた仔猫を眺めていた私は、そっと抱き上げて自分のフトンに入れて寝かせてあげたのでした。
そんな風に、すぐに出ていく予定でやって来たうちのネコには、今日に至るまでまともな名前がついていません。にゃんこ、にゃあこ、にゃこまん、などと呼ばれているうちに、いつしかそれが名前になってしまったわけです。
募集していたネコの貰い手が見つかったのは、彼女が拾われてから三週間ほど経った頃の事でした。その人はうちの医院の患者さんで、気さくな年輩の男の方でしたが、以前に飼っていたネコが事故死してしまったので、新しいネコをさがしていた、との事です。
さっそく車で引き取ってもらう事にして、妻に紹介しました。何時の間にか段ボール一杯になったネコグッズをおまけにつけ、ネコはその人の車に乗って出て行きました。
底上げされた箱の上に乗ったネコの頭が、車の助手席の窓からちょうど人間の子供のシルエットのように浮き上がって見えたのを覚えています。
「やれやれ、やっと終わった。いろいろあったけど、明日からまた静かになるね」
そう言って振り向いた私は、妻の姿を見てギョッとしました。
妻が、買ってきたばかりのネコのじゃらし紐を両手でよじり合わせ、嗚咽しながら泣いているのです。まずい! こ、このままでは、私がずっと悪者にされてしまう…! 一生恨まれるかも知れない。私の中で何かが音を立てて弾けました。
「わかった! もうわかったから。あいつを飼えばいいんだろ、今からでも頼んでまた連れ戻してくればいいんだろ、俺が許すから、もう気のすむようにやっていいから…」
それから私達がどんなに慌ててその人の連絡先を捜したか、知り合いの家に立ち寄っていたその人のもとに駆け付けて、どんなに平謝りに謝ったか、全てを詳しく話す事はとても出来ません。でも、結局ネコはその日の晩、妻の運転する車に乗って、うちの『にゃんこ』として戻ってきたのでした。
それから七年ばかり経った今、背負っているものの重さの違うはずのうちのネコは、日がな一日寝て過ごしています。どうもすごいネコには見えないのですが、“幼児体験”のせいでしょうか。昔自分が襲われたのと同じ、日本犬タイプの犬を見ると、見境いなく飛びかかるという困った習性を持っています。おまけにうちの家中の壁紙をビリビリに引き裂いて、それこそ血統書付きのネコが何匹も買えそうな大損害を与えたのもこいつのしわざです。
それでも、大げさに言えば、私達家族の運命を変えてしまったネコなのかも知れません。こいつがやって来てから何となく家庭全体がネコを中心に廻っているような感じですし、この私にしても、自分がネコ好きと呼ばれる人間になろうとは夢にも思っていなかったのですから。
1999.秋 BY うにゃ子の夫