著作権重要判例要旨[トップに戻る]







学術的な記述の翻案性が問題となった事例
「書籍『企業主義の興隆』vs.『ヒューマン・キャピタリズム』事件」
平成130328日東京高等裁判所(平成12()1268 

 控訴人は、書籍全体の翻案権の侵害が成立しないとしても、対比箇所…の11箇所については、特にその類似性が顕著であり、当該記述部分の翻案権の侵害となる旨主張するので、以下、これらの11箇所の対比箇所の表現が、それぞれそれ自体として翻案権の侵害となるかどうか検討する。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比した場合、いずれも終身雇用、年功序列制が年功の浅い者に不利で年功を積んだ者に有利に作用すること、途中退職をした場合に従来の年功は無価値となるという趣旨をいう点において共通するということはできるが、従来の年功を「貯蓄」というか、「譲渡不能な資産」というかなど、その特徴的な表現において相違しており、単なる内容の共通性を超えた創作的な表現上の類似性を見いだすことはできない。よって、被控訴人Cが控訴人Cの翻案であるとはいえない。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比した場合、いずれも東洋工業が行った大規模な配置転換に触れている点で共通するが、それ自体は事実にすぎず、単なる事実の共通性を超えた創作的な表現上の類似点を見いだすことはできない。よって、被控訴人Fは控訴人Fの翻案であるとはいえない。
 
(略)
 これらの記述をそれ自体として対比した場合、いずれも同じ企業に所属している状態を「同じ船に乗っている」という意味の言葉で表現している点で共通するが、企業を「船」にたとえることは、他の書籍(例えば、前掲「日本は資本主義ではない」)でも見られる表現であり、他方、この表現以外に創作的な表現上の類似性を見いだすことはできないから、被控訴人Iが控訴人Iの翻案であるとはいえない。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比するに、両者は、仕事が苦痛であるとは限らないとの内容及び政治家及び芸術家をその例示としている表現において共通している。しかし、仕事が苦痛であるとは限らないとの記述内容自体はごくありふれたものにすぎず、株式会社講談社昭和56620日発行、尾崎茂雄著の「『生きがい』と『豊かさ』」にも同様の内容が芸術家等を例に挙げて表現されており、表現上の創作性は乏しいといわざるを得ない。そして、他に両者の創作的な表現上の類似性を見いだせないから、被控訴人Jは控訴人Jの翻案であるとはいえない。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比した場合、両者は、1970年代の日本の幾つかの企業において独自の経営哲学の開発ないし組織の形成が行われるようになったという記述内容、その例示としてホンダ、ソニー、京セラ等を挙げている点及びその説明のためにまず戦後の鉄鋼業におけるアメリカ方式の導入について触れるという論述順序が採られている点で共通するということはできる。しかし、控訴人Mは、戦後の鉄鋼業が導入したアメリカ経営の思想はテーラリズムであると規定した上で、1970年代以降の日本のいくつかの企業の試みを「想像を超えた風変わりな形態の組織の形成」、「奔放な実験」といった印象的な表現で対比して論述し、さらにはそれが歴史的な意義を有するであろうことを予言するものであり、これらの点に控訴人Mの独自の創作性を見いだすことができるのに対し、被控訴人Mは、戦後の鉄鋼業で採用されたアメリカ方式ではトレーナーの養成が十分できなかったと分析した上で、1970年代以降の経営の革新を「人間を中心とする経営哲学、原理、技術、習慣を開発した」ものと評価したものにとどまり、控訴人Mの最も創作的な表現部分を何ら直接感得することができないというべきである。
 
他方、1970年代の日本の幾つかの企業等の企業において独自の経営哲学の開発ないし組織の形成が行われるようになったという記述内容は単なる事実であるし、企業名の例示や上記の論述順序が、著作物としての表現形式上の本質的な特徴を基礎づけるものとは認められないから、被控訴人Mは控訴人Mの翻案であるとはいえない。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比すると、両者は、日本の企業では労働者の転職の自由は実質的に制約されるが、企業組織の内部では自由を享受するという内容をいう点で共通しており、その表現として、「市場」と「組織」における「自由」を対比して述べるという用語の選択において類似する。しかし、被控訴人Oにおいては、「アメリカ資本主義の視点」という切り口で論述を進めている点、「『組織された』自由」という独特の表現を用いている点に創作的な表現上の特徴を見いだせるところ、これらの点で控訴人Oと異なっており、単に「市場」、「組織」及び「自由」といった用語の選択の類似性や、日本企業における転職の自由と企業組織の内部での自由の享受についての評価の同一性があるからといって、著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にすると認めることはできない。よって、被控訴人Oが控訴人Oの翻案であるとはいえない。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比するに、両者は、ともに、日本的経営の特徴を日本人が稲作民族であることに求める説を否定する点及びその反証として韓国の例を挙げる点で共通するが、控訴人<26>が、日本的経営の起源についての諸説に関し、「稲作民族」のほかに「藩の体制」及び「儒教や武士道精神のような伝統的倫理」を併せて挙げて、これらは「観念的に過ぎ」、「日本的経営の特徴が労働面にのみあると考えているところに基本的問題がある」としているのであって、これに対し、被控訴人<26>が稲作に焦点を絞って、「泥の中で何世紀も一緒に働くうちに調和の感覚が育ち」という独特の表現を用いたり、水争いの歴史に触れて論理展開しているのと比べると、上記のような共通点をもっても、両者の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にするとは認められない。よって、被控訴人<26>が控訴人<26>の翻案であるということはできない。
 
(略)
 
これらの記述をそれ自体として対比した場合、日本的経営の特徴を儒教によって説明しようとする考えを否定する点で共通するが、具体的な表現としては、控訴人<29>が「文人官僚」、「平等性や仕事への主体的取り組みや、ボトム・ アップの意思決定方式」といった用語を用いているのに対し、被控訴人<29>は「世俗宗教」、「高級官僚や国家役人」、「企業家精神や金銭的冒険」とするなど、両者は用語の選択において大きく異なっている上、被控訴人<29>において、「おかしいし、こじつけである」との結論を述べた上で、「おかしい」理由と「こじつけである」理由を順次展開するという修辞を用いている特徴的な表現等において全く類似性を見いだせない。よって、被控訴人<29>を控訴人<29>の翻案ということはできない。
 
(略)
 
以上のとおり、被控訴人書籍は、書籍全体としても、個別の対比箇所をそれ自体として取り上げて検討しても、被控訴人書籍が控訴人書籍の学術に属する著作物としての表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるということはできない。
 
なお、控訴人は、控訴人書籍と被控訴人書籍とで多数の例示等が共通するのは偶然の一致ではあり得ず、模倣であるとしか考えられない旨主張する。しかし、被控訴人書籍の記述内容と控訴人書籍の記述内容との共通点に係る事実ないし着想が、控訴人書籍の記述に負っている部分があるとしても、単なる事実や表現を伴わない着想それ自体は著作権法が保護する対象ではない上、当該記述内容は、学術論文としての創作性を基礎づけるに足りないものであるか、両書籍における論理上の位置づけを全く異にするものであって、被控訴人書籍から控訴人書籍の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるものでないことは前示のとおりである。











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