著作権重要判例要旨[トップに戻る]







「わいせつ」(刑法175条)の意味と判断基準
「チャタレー事件」最高裁判所大法廷昭和320313日(昭和28()1713
 

 「チヤタレー夫人の恋人」は英文学界において名前が通つているCの長編小説であり、芸術的観点からして相当高く評価されている作品である。それは小説の筋の運び方や、自然、社会、登場人物の性格の描写、分析や、著者の教養の広さを示すところの、ユーモアと皮肉に富む対話などからして、著者の芸術的才能を推知せしめるものがある。次にこの小説は思想、文明批評等に関する諸問題を含んでいる。これらの点において著者は一般的にいえば伝統的な、ことに英国において支配的な観念に対し反抗的革新的な自己の理想を卒直に表明している。
 
話の発端は第一次大戦において負傷し、性的機能を失つた若い貴族のクリツフオードとその妻コニ―との、中部イングランドのラグビー邸における彼女にとつて不自然で退屈な生活である。そのうちにコニ―とクリツフオードの雇人で、その領地内に住んでいる、妻と別居していたメラーズという森番の男との間に恋愛および肉体的関係が発生、発展し終に両人ともに社会的拘束をふり切り、離婚によつて不自然と思われる婚姻を清算して恋愛を基礎とする新生活に入ろうとする。これがこの小説の構造のあらましである。そしてこの構造は思想的、社会的、経済的の主題によつて肉附がなされているのである。それらは貴族階級の雰囲気に対する批判、工業化による美しい自然の破壊、農村の民衆の生活に及ぼす影響、鉱業労働者の悲惨な境遇、人心の荒廃、非人間化等の事実を指摘し、また著者自身が真に価値のある生活と認めるものおよび著者のもつ社会理想を暗示している。そしてその主題の中で全篇を一貫する最も重要なものは、性的欲望の完全な満足を第一義的のものとし、恋愛において人生の意義と人間の完成を認めるかのような人生哲学である。
 
かような人生哲学からして著者は彼の祖国のみならず他の国々においてもあまねく承認されているところの、性に関する伝統的な、彼のいわゆる清教的な観念、倫理、秩序を否定し、婚姻外の性交の自由を肯定するが、同時に性的無軌道な新時代の傾向に対しても批判的であり、精神と肉体との調和均衡を重んずる性の新な倫理と秩序を提唱しているものであること本書の内容、著者自身の序文、その他の著書および原判決において引用するCの書翰からして推知できるのである。この点から見て本書がいわゆる春本とは類を異にするところの芸術的作品であることは、第一審判決および原判決も認めているところである。しかしながらCの提唱するような性秩序や世界観を肯定するか否かは、これ道徳、哲学、宗教、教育等の範域に属する問題であり、それが反道徳的、非教育的だという結論に到達したにしても、それだけを理由として現行法上その頒布、販売を処罰することはできない。これは言論および出版の自由の範囲内に属するものと認むべきである。問題は本書の中に刑法175条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれているかどうかにかかつている。もしそれが肯定されるならば、本書の頒布、販売行為は刑法175条が定めている犯罪に該当することになるのである。
 
しからば刑法の前記法条の猥褻文書(および図画その他の物)とは如何なるものを意味するか。従来の大審院の判例は「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」ものとしており(例えば大正7年(れ)第1465号同年610日刑事第二部判決)、また最高裁判所の判決は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」としている(第一小法廷判決、最高裁判所刑事判例集561026頁以下)。そして原審判決は右大審院および最高裁判所の判例に従うをもつて正当と認めており、我々もまたこれらの判例を是認するものである。
 
要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される
 
およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である。人間は自分と同等なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ。これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである。
 
羞恥感情の存在は性欲について顕著である。性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。この感情は動物には認められない。これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人聞または特定の社会において缺けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。
 
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法175条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
 
しからば本被告事件において問題となつている「チヤタレー夫人の恋人」が刑法175条の猥褻文書に該当するか否か。これについて前提問題としてまず明瞭にしておかなければならないことは、この判断が法解釈すなわち法的価値判断に関係しており事実認定の問題でないということである。
 
本件において前掲著作の頒布、販売や翻訳者の協力の事実、発行の部数、態様、頒布販売の動機等は、あるいは犯罪の構成要件に、あるいはその情状に関係があるので証人調に適しているし、また著者の文学界における地位や著作の文学的評価については鑑定人の意見をきくのが有益または必要である。しかし著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である、問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。このことは刑法各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。社会における個々の人について、また各審級の裁判官、同一審級における合議体を構成する各裁判官の間に必ずしも意見の一致が存すると限らない事実は、他の法解釈の場合と同材である。これは猥褻文書であるかどうかの判断の場合のみではなく、これを以て裁判所が社会通念の何たるかを判断する権限をもつことを否定し得ないのである。従つて本著作が猥褻文書にあたるかどうかの判断が一部の国民の見解と一致しないことがあつても止むを得ないところである。この場合に裁判官が良識に従い社会通念が何であるかを決定しなければならぬことは、すべての法解釈の場合と異るところがない。これと同じことは善良の風俗というような一般条項や法令の規定する包括的な諸概念の解釈についてとくに問題となる。これらの場合に裁判所が具体的の事件に直面して判断をなし、その集積が判例法となるのである。
 
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならめのである。
 
さて本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する12箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。要するに本訳書の性的場面の描写は、社会通念上認容された限界を超えているものと認められる。従つて原判決が本件訳書自体を刑法175条の猥褻文書と判定したことは正当であり、上告趣意が裁判所が社会通念を無視し、裁判官の独断によつて判定したものと攻撃するのは当を得ない。
 
次に本訳書の猥褻性の判定に関し二、三の点に立ち入つて説明する。
 
本書が全体として芸術的、思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることは上述のごとくである。本書の芸術性はその全部についてばかりでなく、検察官が指摘した12箇所に及ぶ性的描写の部分についても認め得られないではない。しかし芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。猥褻なものは真の芸術といえないというならば、また真の芸術は猥褻であり得ないというならば、それは概念の問題に帰着する。これは我々が悪法は法と認めることができるかどうかの問題と類似している。実定法の内容が倫理的に悪であり得るごとく、我々が普通に芸術的作品と認めるところのものでも猥褻性を有する場合があるのである。いわゆる春本の類はおおむねかような芸術性を欠いているから、芸術性を備えている本件訳書はこれを春本と認めることができないこと第一審以来判定されてきたところである。しかしそれが春本ではなく芸術的作品であるという理由からその猥褻性を否定することはできない。何となれば芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的面において猥褻性をもつているものと評価されることは不可能ではないからである。我々は作品の芸術性のみを強調して、これに関する道徳的、法的の観点からの批判を拒否するような芸術至上主義に賛成することができない。高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない。芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使命の遂行において、羞恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。
 
芸術性に関し以上述べたとほぼ同様のことは性に関する科学書や教育書に関しても認められ得る。しかし芸術的作品は客観的、冷静に記述されている科学書とことなつて、感覚や感情に訴えることが強いから、それが芸術的であることによつて猥褻性が解消しないのみか、かえつてこれにもとずく刺戟や興奮の程度を強めることがないとはいえない。
 
猥褻性の存否は純客観的に、つまり作品自体からして判断されなければならず、作者の主観的意図によつて影響さるべきものではない。…











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