NASH v. CBS, INC. (7th Cir. 1990)

本ケースの概要

<Public Enemy No. 1>(社会公共の1番の敵)と称された凶悪犯ディリンジャー<John Dillinger>は、1934年7月22日、シカゴにあるBiograph Theaterで、FBIのエイジェントに射殺されて死亡しました(死亡した、とされています)。
Jay Robert Nashは、ディリンジャーはBiograph Theaterでは死ななかったものと確信し、『Dillinger: Dead or Alive?』(ディリンジャーは死んだのか、それとも生きているのか)(1970年)及び『The Dillinger Dossier』(ディリンジャー事件ファイル)(1983年)というタイトルの彼の書籍の中で、ディリンジャーは、事前にFBIのわなを察知し、自分の身代りに、自分に似た、Jimmy Lawrenceという名の「取るに足らないゴロツキ」<a small-time hoodlum>を行かせたと主張しました(注1)

(注1)Nashは、その書籍の中で、ディリンジャーの身体的特徴と、Biograph TheaterでFBIのエイジェントに射殺されて死亡した遺体の身体的特徴との間にいくつかの矛盾点があることをかなり具体的に指摘しています。そして、多くの関係者へのインタビューの後、Nashは、ディリンジャーが西海岸で生きていることを突き止め、そこで、ディリンジャーは、結婚して、身を隠していたと記しています。Nashは、ディリンジャーは少なくとも1979年までは生きていたと信じていました。『The Dillinger Dossier』には、中年のカップルの何枚かの写真と、老いぼれたディリンジャーであるとNashが信じる1人の老人男性の写真が含まれていました。

Nashによる以上のような説は、歴史家やFBIの間で支持を得たものではありませんでした。ところが、1984年にCBSが『Simon and Simon』というテレビのシリーズ番組の中で、『The Dillinger Print』(ディリンジャーの指紋)というタイトルのエピソードを放送しました(注2)

(注2)The Dillinger Print』の詳しいストーリーは割愛しますが、ディリンジャーと1934年に射殺されて死亡した遺体の身体的特徴との間にいくつかの矛盾点があること(ここで語られた矛盾点は、Nashが彼の書籍の中で指摘したものと同じでした。)などから、「ディリンジャーは生きている」<Dillinger is alive.>というアイディアをエピソード(そのストーリーは西海岸のSan Diegoで展開する。)の基本的骨格としていました。

本ケースは、Nashが、CBSに対して、『The Dillinger Print』は、ディリンジャーが暗殺から逃れて、西海岸で新たな生活を送っていたとする彼の書籍の著作権を侵害したと主張して、損害賠償を求めたものです。連邦地裁は、Nashの書籍において著作権によって保護される素材は、その(詳細な)解説[論述]部分にあり、いかなる歴史的出来事に存すものではない<the books' copyrighted material consists in Nash's presentation and exposition, not in any of the historical events.>とした上で、『The Dillinger Print』は、Nashの著作権によって保護されるいかなる素材も利用したものではなかったと結論づけました。

上訴審である第7巡回区控訴裁判所は、結論として、『Simon and Simon』の製作者は、Nashが他人の作品を利用したのと同じやり方、すなわち、他人の作品を事実とアイディアの情報源として利用したのと同じように、Nashの作品を利用したものである(当該製作者は、そこに他とは区別できる要素を付加したものであった)<The producers of Simon and Simon used Nash's work as Nash has used others': as a source of facts and ideas, to which they added their distinctive overlay.>と認定しました。つまり、『The Dillinger Print』は、Nashによる歴史的分析を借用したが、その表現は一切利用していない<The Dillinger Print uses Nash's analysis of history but none of his expression.>として、原審の判断を支持しました。

歴史的読み物(ノンフィクション)をどこまで保護すべきか

一般論としては、NicholsケースでHand判事が示した「抽象化テスト」<abstractions test>の考え方が妥当します。つまり、「すべては、裁判所が、どのレベルの抽象化まで、著作権によって保護されるべき著作者の利益を考えるかにかかっている」<all depends on the level of abstraction at which the court conceives the interest protected by the copyright.>ということです。裁判所がこの抽象化のレベルを低く(つまり、保護されるべきは最初の著作者によって選択された、ことば通りの表現のみであると)考えれば、後の著作者は、当該最初の著作者のプロットや歴史的な見解などを自由に利用することができ、一方、裁判所が抽象化のレベルを高く設定すれば、最初の著作者は、およそあらゆるジャンルの後の作品に対して、自己の著作権を主張できることになります(『Romeo and Julie』の著作権が『West Side Story』に及ぶような状況を考えてみてください)。これは、「包括的、全面的とまでは言えない抽象化の程度であっても、(連邦著作権法が「表現」のみを保護するとしているにもかかわらず、)「アイディア」に対して著作権による保護を与えるリスクを引き起こす」<Even a less sweeping degree of abstraction creates a risk of giving copyright protection to "the idea" although the statute protects only "expression".>ことにつながります。したがって、詰まるところ、最初の著作物を後の著作物との関係でどの範囲まで保護すべきかは、当該最初の著作物がフィクションかノンフィクションか、著作権法が「二次的著作物」<derivative works>をその保護対象としている点なども考慮に入れて、どの地点まで抽象化(一般化)を進めることができるかを個別の事案ごとに検討するほかありません。

本ケースでは、最初の著作物が「歴史的読み物(ノンフィクション)」である場合に、類似の他のケース(特にHoehlingケース)を意識した判示部分が参考になります。
Hoehlingケースでは、「歴史上の問題や出来事に取り組もうとする著作者に冷や水を浴びせるような効果を与えないためには、理論[学説]やプロットを含めて、歴史上の題材を利用する著作者(後に続く著作者)に対し、幅広い裁量(ここでは、歴史上の題材を自由に使える権利のこと)が与えられなければならない」<To avoid a chilling effect on authors who contemplate tackling an historical issue or event, broad latitude must be granted to subsequent authors who make use of historical subject matter, including theories or plots.>と判示されました。
これに対し、本ケースにおける控訴裁判所は、「著作権法は、表現と峻別される(その表現をする過程における)労力を保護するものではなく、かかる労力は、著作権によって保護され得る表現の必須の要素ではない」<Copyright law does not protect hard work (divorced from expression), and hard work is not an essential ingredient of copyrightable expression.>と認めながら、「最初の作品が歴史に係わるものである限り、‘なんでも行ける’(ここでは、後の著作者は、当該最初の作品の成果をなんでも自由に利用しても構わないという意味)と言うには躊躇を覚える」<we are not willing to say that "anything goes" as long as the first work is about history.>と、Hoehlingケースとは、少々距離を置いた見解を示しました(つまり、Hoehlingケースは、後続の著作者のインセンティブを重視し過ぎている、ということです)。Hoehlingケースにおける最初の著作者は歴史的手がかりを求めつつ当該作品を書き上げるのに数年間をかけました。この労力の成果が何の報償もなく後の著作者によってすべて自由に利用されるのであれば、手間と時間をかけて歴史的事実を調査探求することは行われなくなり、そうなれば後続の著作者が依拠できる有用な歴史的事実も世に出なくなる、本ケースにおける控訴裁判所は、そのように考えました。

本ケースにおける控訴裁判所も、「ディリンジャーが生きていたと結論づけた最初の者は、その歴史的事実に対する権利を手に入れるものではない」<the first person to conclude that Dillinger survived does not get dibs on history.>、「ディリンジャーが生きていたのであれば、当該事実は誰でも利用できる」<If Dillinger survived, that fact is available to all.>として、結論としては、『The Dillinger Print』は、『The Dillinger Dossier』その他の書籍の「表現」を利用したものではないとしました。

本ケースに限らず、すべての表現者(著作者)は、常にほぼ100%、同時の他人の表現物(著作物)の借用者でもあります。「最初」の著作者も、さらに前の著作者の(その著作者さえも、先人たちの)知識や表現を、その程度は別にして、必ず借用しているはずです。
「著作権で表現をどこまで(抽象化してどのレベルまで)保護するべきか」は、洋の東西を問わず、著作権法の分野では、最大の難問かもしれません。




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