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>>「坐禅しても何にもならん」とは
>>「一切の思いを投げ出して坐る時その時その場(時空間)と一体になる。
>> その一体となった自己は即ち一切、一切は即ち自己として現前する。」
>> どうしても悟ろうとすると悟りを求める自分がいる。真剣に坐れば真剣になろう とする自分がいます。
>> 坐禅をすれば何とか(何かを得る)なると言った処を離れれば非常に楽に坐れま した。
>> 確かに「見性」とは禅においては一番大事な点でしょうが現在の参禅ではよほど 時間が有るか出家者以外は無理ではないでしょうか?となれば在家者は自ら禅を 仏教を独習しなければならないと思います。
>> (その点において「本を読んで禅を学ぶのは下根・・」と言われた時はビックリ
>> し ましたけどね。)
>> ただ、教学は必ず思考の袋小路に入ります。その時初めて「何にもならん、何に もできない」自分に気がつくのではないでしょうかね。
>> ここを見切って蹴っ飛ばしてくれるのが真の禅匠であられると思っています。
>> 再拝
>
>たびたびすいません。まさやんさんのおっしゃってることは、よく理解している
>つもりです。ただ、まさやんさんは禅に惹かれて、既に御自分の工夫の世界
>に入っておられる。私が嘆いているのは、その手前で禅って何だろうとか
>仏教って何を教えているの?といった素直な疑問に対する適切な案内が無い
>ために有能な人材を取りこぼしている、と感じるからです。それも、あるいは
>「禅の意義をすぐに分からない奴は、下根。」とかおっしゃる禅者もいると
>思うのですが、それは私にとってはあまりに狭量な判断と思ってます。
>少なくとも禅の工夫の勘所が分かるまでは、あまり禅風を表に出すのはいかが
>なものかと思うのです。真剣になろうとすれば、なろうとする自分が居る、と
>いうのは勿論のこと雑念です。それも強固な。禅は、雑念との戦いですから
>悟るためという意識が、雑念となっては困るのは分かりますが、そんなことを
>言ってたら、雑念こそが禅に導くきっかけになってる場合が多いことはどう
>解釈されるのでしょうか?例えば故事に従えば慧可大師が達磨大師に心が騒いで
>しょうがない、と訴えたのは、後にそれが雑念、あるいは固定観念が原因で
>あったことを識ることになったと思います。
>教学は、必ず行き詰るとの話ですが、それが必要だと思うのです。行き詰らない
>と「知らない」ということが分からないのです。そこから修行に入っていくのは
>極めて自然なことだと思うのです。
>以上です。拝。
私は雑念と疑団とは違うと思います。疑団は転ずれば「信」となりますが雑念とは「今日悟れるか、明日悟れるか?」と言ったモノホシガル心で疑団とは「これ如何?」と突き進む事だと思います。
また疑団は大きければ大きいほど転じた時の「信」は大きいものですが雑念はどこまでも雑念で泡のように浮かび消えていくものです。
だからそうしたモノホシガル心を見極めてこそ「坐禅しても何にもならん-だから坐禅するのだ」になるのだと思うのです。
禅は当たり前ですが仏教です。しかし参禅者の中には「三宝に帰依するのはいやだ、仏教を勉強するのは面倒だが悟りや見性だけしたい」という方も居られます。
これもあまりに「禅と悟り」を前面に出しすぎた弊害ではないでしょうか?
実際禅や仏教を学びたいと思ってもナカナカ教われないのが現状でしょう。
こういった事は参禅したことが有る人なら少なからず思う事と思いますので掲示板を読まれた禅宗関係の諸大徳に何かよい知恵をお願いいたします。 拝
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