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>>>確かに悟りとは一切のロジックを超越した物と思いますがあまりに重々しく却って「求めるべき対象(境、有)」になってはいないでしょうかね・・・。(おっと、暴走した!)今は沢木興道老師の「坐禅してもなんにもならん。しかしこの何にもならん所が大事じゃ」を参究しています。
>>
>>気になることだけ2,3述べさせて下さい。
>>ロジックを超越したもの、というのは当然です。お湯が熱いのはロジックでは
>>ありません。しかし、どうしたらお湯が得られるかはロジックです。
>>お釈迦様が縁起の法を説かれ、「あれ無ければ、これ無し」の論理の鎖を説いた
>>のもロジックです。ロジックから入る人間は下根とする禅者は、眉唾ものと私は
>>考えています。沢木興道老師の言葉も、そこだけ取り出せば禅者くさい鼻持ち
>>ならないまやかしです。現に何十年も禅をやってて心境のさっぱり進んでない方
>>は、沢山おられます。臨済宗は看話禅、曹洞宗は黙照禅と悪口される事態になり
>>ます。明眼の師は、ロジック「も」使って人を導くものと思います。
>>以上です。拝。
「坐禅しても何にもならん」とは
「一切の思いを投げ出して坐る時その時その場(時空間)と一体になる。
その一体となった自己は即ち一切、一切は即ち自己として現前する。」
どうしても悟ろうとすると悟りを求める自分がいる。真剣に坐れば真剣になろう とする自分がいます。
坐禅をすれば何とか(何かを得る)なると言った処を離れれば非常に楽に坐れま した。
確かに「見性」とは禅においては一番大事な点でしょうが現在の参禅ではよほど 時間が有るか出家者以外は無理ではないでしょうか?となれば在家者は自ら禅を 仏教を独習しなければならないと思います。
(その点において「本を読んで禅を学ぶのは下根・・」と言われた時はビックリ
し ましたけどね。)
ただ、教学は必ず思考の袋小路に入ります。その時初めて「何にもならん、何に もできない」自分に気がつくのではないでしょうかね。
ここを見切って蹴っ飛ばしてくれるのが真の禅匠であられると思っています。
再拝
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