| |
>>坐禅はどこまで行ってもあなたの問題です。他人がどうこうじゃない。真剣に坐るのではなく真剣に坐らざるを得ないのです。答はあなたが出すしかない。余所見は一切不要です。
>分かりました。
>結局は冷暖自知と言う事ですね。
>有難う御座いました。
>早速坐る事にします。
横合いから失礼します。
こうした問答は、よく耳に致しますが、本当にそれでいいのでしょうか?
ただ実践のみ奨励する、一般人には禅をすることで何をしようという意図
なのかさっぱり分かりません。修行者にしてもそうです。中には明確な
課題を意識して修行されている方もいらっしゃいます。しかし、それは
ごく希です。一個半個を生み出すことが嗣法者の最大の課題です。その
ためには、確かにそもそも高い意識の修行者でなければ真の悟りには
到達できないかも知れません。ですが、それでは偶然を待つだけにはなら
ないのでしょうか?臨床心理学や哲学をもって説明してはいけないので
しょうか?ある線から先は話しては却って害になることもあるでしょう
から、少なくとも人生や自らの生に疑問を持たせるための説法は必要と
私は考えています。禅は、私は悟るために行うものと明確に考えています。
ただ座れ、とか言う人はなぜそう言わないのか?悟るとはどういうことか
を想像したり戯論に陥るのを恐れるためかと勝手に想像しております。
しかし、これでは本当に有能な人材さえも禅道に入ってくるさえ難しい。
夏目漱石の「門」という小説がよく物語っていると私は嘆きたいです。
|
|