Midori Natsukawa Presents
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David Bowie  1973 in Japan


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デヴィッド・ボウイ  1973

 デヴィッド・ボウイの初来日は1973年の4月のことでした。
私がボウイさんに会ったのは、この初来日のときのたった1回ですが、あのときが、彼のもっとも光り輝いていたころだったのでは・・・と思っています。
 以下は、4年前の春に出た、「ニュー・ルーディーズ・クラブ」27号に私が書いたデヴィッド・ボウイの記事からの抜粋です。


 飛行機嫌いとのボウイは、初めての日本へ豪華客船でやって来た。横浜の港に上陸した彼は、その後東京で5回、大阪、名古屋の他、広島、神戸でもコンサートを行ない、音楽ファンの間に大きな旋風を巻き起こした。

 のちビデオにもなった「ジギー・スターダスト」はこのときのツアーのラストを飾ったイギリスでのライヴを収録したもので、そこにはコンサートに集まった観客たちの様子もチラホラ写っていたが、意外とキンキラキンのコスプレが少ないし、思いっきり年齢層も低いのがわかる。だが日本でのボウイ初コンサートは、その当時のロック・コンサートとしてはかなり年齢層が高かったような気がする。当然T・レックス的グラム・ロック風のいでたちの高校生たちも大勢いたが、なんだか文化人のサロン的雰囲気も強かった。それまでデヴィッド・ボウイを口々に褒めたたえて、彼を生で見ることが再先端の文化人の証しとばかりに、あちこちに出没しては吹きまくっていた前述の音楽文化人たちが、先を争うようにコンサート会場に姿を見せていたからだ。

 だが、初日は最前列、追加公演以外は4回も通いまくった私は、美形のボウイを見たいという元の動機は少々不埒だったが、そんな文化人のおじさん、おばさんたちの思惑なんか知ったこっちゃない。100%純粋のボウイのロックと、彼の美貌に酔いしれた。

 映画「時計じかけのオレンジ」のテーマ曲として使われたシンセサイザーによるベートーベンの<喜びの歌>が鳴り渡る中、ゆっくりと幕が上がり、そしてせり上がり式にステージに現れたボウイとスパイダースの面々の艶姿。一瞬静止して、次の瞬間<ハング・オン・トゥ・ユアセルフ>へと爆発する。このツアーでのボウイの衣装はすべて山本寛斎のデザインによるもので、たしか9着もの衣装替えがあり、そのコスチュームを見ているだけでもわくわくする体験だった。山本寛斎はすでにロンドンの有名ミュージシャンの間でカリスマ・デザイナーとして知られていたが、まだ世界的に超一流ではなかった。そのデザインは死ぬほど奇抜で、彼以外の人間には逆立ちしたって着られそうもないが、ボウイには最高に似合っていた。

 オレンジ・ヘアーのボウイは噂通り美しかったが、歌っている彼は思いもかけないほど大きく口を開け、その声量たるや半端じゃない。なのにアコースティック・ギターを抱えると、別人のように優しく囁くように歌う。まるで映画俳優のようなドラマティックで気障な動きを見せたかと思うと、荒々しく天衣無縫なロックン・ローラーにもなる。彼の中に何人もの人間がいると思えたほどボウイは目まぐるしく変化した。

 彼はその時「ジギー・スターダスト」でありながら「アラジン・セイン」でもあり、華麗で優美でありながら力強く、退廃的ではあるが生命力に溢れ、ポップでありながら芸術的でさえあった。そしてその演奏はロックの神髄を余すところなく伝えていた。T・レックスは偽者臭かったが、デヴィッド・ボウイこそは本物を感じさせてくれ、このとき彼はもうすでにカリスマであった。ここまで完成されたロックン・ロール・ショーは、多分日本では初めてだったのではないか。それくらい素晴らしかったのだ。

 バック・バンドのスパイダースの技量も高く、ミック・ロンソンはボウイと妖しげなからみを見せて客を煽るが、そのソリッドなギター・ワークは独立したミュージシャンとしても傑出していた。また特筆すべきはベースのトレヴァー・ボールダーで、彼はのちユーライア・ヒープにも加入したが、この時も思わず乗り出してしまうほどの凄腕のベース・プレイを聞かせていた。

 要するに彼らは上手いバンドだったのだ。グラム・ロックなんてのは生で見りゃ大した演奏も出来ないこけおどしのバンドたちのこと、とはその前年見たT・レックスを見て思ったことだったが、同じグラム・ロックと言われたデヴィッド・ボウイ&スパイダースは、もはや彼らがグラムかどうかなどどうでも良いと思わせるに足る質の高いバンドだった。ボウイはすでにマーク・ボランとは違う次元にいるアーチストだったのだ。
 T・レックスのアルバムは何枚も持っていたわりに、ボウイの方は曲は知っていたくらいでまだアルバム1枚もっていなかった私は、そのコンサート後あわててレコード店へ走った。多分そういう人は多かったのじゃないかと思う。
 
 追っかけの最前線にいたその頃の私と仲間たちは、またもやオフのボウイにも会いにいっている。それまでロック・ミュージシャンはほとんど泊まったことのない銀座の帝国ホテルにいると聞いて早速行ってみた。来日した翌日と、コンサート2日目の夜と2回会えたが、たしか最初に会った日はボウイが出てくるまで5時間くらいひたすらロビーで粘りこんだ。

 ようやく現れたボウイは奥さんのアンジーと、まだ2才くらいの息子ゾウイと仲睦まじげに連れだっていた。その様子はルネッサンスの絵画を連想させるくらい穏やかで優しげで、こんな美しい家族がいていいものだろうかとほとんど感動ものだった。ボウイは私らファンにも柔らかく微笑みかけ、気さくにサインにも応じてくれたが、その物腰はあくまで優雅で上品であり、男とも女とも言えない中性的なムードに包まれていた。ファン一同まさに目がハートになってしまって声もなく、ただボーッとその姿を眺めていたようだ。のち悪妻の代名詞にまでなってしまったアンジーだが、その当時は彼女も非常に美しく、プラチナ・ブロンドの髪をピンクとグリーンに染め分けていて、いかにもファッショナブルな女性といった感じで、彼女もファンには非常にやさしく終始にこやかだった。ボウイへそっと寄り添うさまも良き奥様そのものだった。そしてその二人の息子のゾウイちゃんは、これまたブロンドのロング・ヘアーの少年でまるで絵から抜け出た天使のよう……。あんまりかわいいので初めは女の子かと思ったが、ボウイ自身が「この子はボーイだよ」と教えてくれたのだ。その後このゾウイくんも成長して、ボウイとアンジーが離婚したのち名前まで改名したと聞いたが、今ではあの子も30才くらいの立派な、そして見目麗しい青年(オジサンではかわいそうだ)になっていることだろう。

 2回目に会ったときも家族連れだったが、その日は私らの手渡した和風小物のプレゼントを手に、ボウイはファンひとりづつとカメラにまで納まってくれた。カメラを向けると少しおどけてみせたりして、決して気取ってもいなければ気難しくもない。もうコンサートも見ていたので彼のジギー・スターダストぶりも知っていたが、オフの彼はステージでのめくるめくきらびやかさとは打って変わった落ち着きのある大人で(当時26才)、あんまりいい人なのでその落差に私はここちよい驚きを感じたものだ。でも彼は決して普通の人ではなかった。ニコニコ笑い、気さくにファンに接していても、デヴィッド・ボウイにはその全身からオーラが漂っていた。ギラギラしたものではないが、彼にはすでに天性のスターのオーラが間違いなくあった。それはマーク・ボランには感じなかったものだ。

 日本での公演も大成功を納め、デヴィッド・ボウイは名実共に日本でのスターの座を獲得した。だがその後5年間は日本へコンサートにやってくることはなかった(京都に家を買ったという話は伝わってきたが……)。


 この前後にも、まだ沢山書いてますので、もっと読みたい方は、シンコー・ミュージックに問い合わせて、「ニュー・ルーディーズ・クラブ」の27号、グラム・ロックの特集号を取り寄せて読んでみて下さい。
NEW RUDIE'S CLUB Vol.27


夏川 翠 
  2004.2.1



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