毒消し売り Antidote selling 新潟市
『毒消しはいらんかネー』と、独特の売り声で家々をまわる越後の女たちの姿が消えてもう久しい。毎年夏が近づくと、爪折笠に紺がすりという身支度に大風呂敷を背負って、女たちは遠くは関東まで毒消しを売り歩いていた。得意先の家々でもまた彼女たちの来るのを待っていた。医薬の豊富でなかった時代には、毒消しは家庭の常備薬として欠かせぬものだった。 毒消し売りは、越後の蒲原平野と日本海を隔てる弥彦・角田山系の麓の越前浜、角田浜、角海浜など海辺の村々のものだ。 角海浜村の始まりは、能登国鳳至郡滝深見村の住人が、新たに領主となった前田家の圧政と不漁に苦しみ移ってきたのが始まりといわれている。 山向こうの穀倉地帯からは信じられぬほどに米と縁のうすい海辺の村では、かつては揚浜式の製塩を生業としていた。しかし江戸時代中頃から瀬戸内海の塩が安く入るようになると、太刀打ちできず、男たちは大工・木挽きの職人として国を越えて出稼ぎに出るようになった。 また、江戸時代後期に、局部的な地形現象「マクリダシ(離岸流)」が角海浜で発生し、度重なる海岸端の決壊により、砂浜が浸食された。当時と比較して、現在では600m海岸線が後退している。もともと狭い土地が失われ、猫の額ほどとなった土地に住民は肩を寄せ合った生活を余儀なくされた。 かつては200mの幅の砂浜を持ち塩田が広がる戸数200戸ほどの角海浜村といわれていた。その後、毒消し売りの衰退とともに離村者が相次ぎ、廃村となっている。 (毒消丸の起源)毒消し薬は、江戸初期から海辺の小村角海浜(現新潟市西蒲区)でつくられていたが、その起源は諸説ある。能登国鳳至郡滝深見村の住人が移ってきた際、滝深山施薬院称名寺(浄土真宗)もこの地に移ってきて、毒消しの製法が伝えられたたのが一般的に起源とされている。 またそのほかに、弥彦神社の神が秘薬の製法を漁師に授けた、上杉謙信の侍医が技術を伝えた、肥後遍路伝授説などがある。いずれも角海浜の称名寺をもって元祖としている。 「称名寺」寺伝では毒消丸の縁起が伝えられている。ある晩、住職の枕辺に高貴な姿が現れて「授ける霊薬によって衆庶の病をいやすよう」にと言って消えたという。その後、一人の病気の旅僧が宿を乞うたので、看病したところ、助けられた謝礼にと霊薬一包みを差し出し秘法を明らかにして立ち去った。この薬を調合して用いたところ、大変よく効いたので、「仏教は心の毒を消し、称名寺の薬は身の毒を消す」との風評が高くなり、『毒消丸』と称するようになったという。 江戸時代の文献に称名寺などで作られていたことが記述されている。同寺の鐘にもその記述が残っている。 (毒消し売りの起源)毒消丸は現存する最後の史料から弘化3年(1846)に称名寺が檀家の庄左衛門(滝深家)に製造販売する権利を許した旨記してある。多額の負債をかかえた称名寺は、借金のかたに檀家の有力者滝深庄左衛門に証文を出し、称名寺が近郷の在家に配置薬として販売していた「置薬高記帳」なども譲り渡した。滝深庄左衛門は嘉永2年(1849)に製造販売を行うようになり、その子九十郎が角海村割元から身元証明書をもらって毒消し売りの行商に出かけることとなったのが行商の始まりであった。 薬材は白扁豆・硫黄・菊目石・甘草・天花粉・澱粉で、これらの粉末を混合して水を加えてこねあげ、指先で小粒に丸めて、ゴザに広げて天日に干し、日陰でよく乾燥したもので、袋に詰めて販売した。これらの作業は11月から翌年3月の寒中に行い、春から秋にかけて行商で販売した。 江戸時代は国を越えて長期間にわたる出稼ぎは認められず、特に女性は厳しく取り締まられていた。 出稼ぎは一年間を超えない範囲内で、村役人に届けて出稼免許を取得して初めて国を越えて出稼ぎに出ることができた。 九十郎は本職が大工で、大工として出稼ぎに出た先を行商して回り、販路を拡大していった。角海浜・五箇浜・角田浜・越前浜など海辺の村では、弘化年間(1844~48)に常陸・下野・上野・武蔵・江戸・信州方面に大工・木挽きの出稼ぎを多く輩出していた。出稼ぎの大工達が毒消し丸を常備薬として携行し腹痛によく効くと評判となっていた。 角海浜や五箇村の女性は、蝦夷地から入った鯡(ニシン)を新潟町の市場で手に入れ、会津若松へ鯡売りの行商に出かけていた。その際、行商した先で毒消し丸を一緒に販売していたと思われる。 毒消し行商へ女性たちが進出したのは、明治時代に入り、旅行制限が撤廃されてからで、急速に進展した。 (毒消し売りの最盛期)明治にはいると製丸機が導入され、隣村の角田浜・越前浜・四ッ郷屋などに広がり、明治末期から大正・昭和にかけて関東一円から、東方、中部、関西まで行商され、人々の生活を支えた。行商に熟練した者(親方)が売り子数人をつれて、旅の村々をまわって売り歩く。独り立ちした者は数人が一軒に間借りし、各自得意先を回って歩いた。 行商の姿は、つま折のスゲ笠に、紺がすりの筒袖、手甲、脚絆、そしてわらじの様子は基本的に変わらなかった。早い者は12,3歳から旅に出て、嫁に行って子供ができるとやめる。中には、子供を負ぶって旅に出た女性や、親方の子供の子守するために、同行した娘もいた。 女たちは5月15日、16日ころに一斉に村をたち、10月末日までに帰郷した。 出発前に近所にふるまいをし、4月18日に弥彦神社(太々神楽)に参拝して道中の無事を祈った。 異郷暮らしだから、年端も行かぬ娘たちには苦労の多い仕事だったが、土地にはほかに稼ぎはなかった。 『山が高うて越後が見えぬ 越後恋しや 山憎や』といった望郷の歌が毒消し売りの間でうたわれるようになった。 信州などの田舎で行商した娘は、宿のないところでは、お得意先の農家に泊めてもらうこともあったが、慣れない若い娘には最初、なかなか言い出すことができなかった。泊めてもらった先ではお礼として家事の手伝いをした。また泊めてもらうことができなくて、野宿することもあったという。 角海浜だけで、明治22年(1889)に売り子総数53人が明治30年(1897)には124人と倍増し、明治45年(1902)には滝深家だけでも127人に膨れ上がった。 明治31年(1898)には14業者が業者相互の利益を守るため西蒲原郡売薬営業組合を設立した。群馬・埼玉方面の開拓は角海の女、信州は越前浜の女、会津は五箇浜の女が主に当たった。 大正末期を最盛期として、周辺も含めると製造業者が24軒もあり、女性の売り子3,000を数えた。この頃、1日歩き回って売り上げは3,4円(現在の貨幣価値で1800円~2400円)になれば上々であったという。国へ戻って100円ほどの給料がもらえたという。 組合は、親元から預かって行商に出る若い娘たちを募集するにあたって、娘たちの風紀の乱れには特に気を使っていたという。 東京や都会に出る娘の中には、口紅や化粧をするものがあったり、誘惑も多く、門限を破るものがあった。親方は組合と相談し掟を破ったものに対しては厳しく当たった。 しかし、村へ帰るときは胸をはって、都会の流行を身に着けた服装をして帰り、村の友達にうらやましがられたという。 (毒消し売りの終焉)戦後になると、毒消し売りとは名ばかりで、反物、洋品、化粧品、金物などの日用品を行李に詰めて売り子たちは行商して歩いた。出稼ぎ期間も5か月から10か月へと伸びた。昭和23年(1948)の薬事法の抜本的改正、その後の新薬の店舗進出で、薬の現金取引行商が禁止され、配置販売業に転換を余儀無くされた。家庭置き薬として残った「毒消丸」も、転職する行商人が続出し、1960年代頃を境に現在ほとんど姿を消した。若い女性の働き場所が拡がり、あえて行商に飛び込もうという者が少なくなったことも、廃れた要因のひとつである。新潟市の製造会社1社がごく少量製造していたが、それも撤退し製造するものがいなくなった。 1953年(昭和28)12月31日第5回NHK紅白歌合戦で、宮城まり子が、「越後の毒消し」の行商の女性をテーマにした歌謡曲『毒消しゃいらんかね』を歌った。 ≪角海浜集落の消滅≫坂口安吾が昭和30年(1955)3月号の「中央公論」に、「新日本風土記=富山の薬と越後の毒消し」というエッセイ風の一文を寄稿し、角海村の様子を記述している。歌謡曲『毒消しゃいらんかね』の歌詞から受ける寒村のイメージとは違い、土蔵と倉がたちならび、立派な石塀で囲まれた家々が立ち並ぶ、明るい村であったと記述している。 しかしその後、毒消し行商の衰退と機を一にして、離村する者が続き、高齢化と過疎化が進行した。 巻原発の建設構想が公表されたのは1969年(昭和44)。当時の角海浜の住民はわずか6世帯13人で、全員が高齢者だった。東北電力は公表前から「東北興産」という不動産会社を使い、レジャーランド建設名目で角海浜を離れた地主らから土地を買収。計画公表後は、集落の住民との交渉に入っていった。土地買収は大きな混乱もなく進み、1974年(昭和49)に最後の住民が転出。小さな集落は姿を消した。 |