角兵衛獅子 kakubejishi 新潟市
旧新潟交通月潟駅のすぐ右隣に角兵衛地蔵尊を祭った堂がたっている。月潟村(現新潟市南区)は、角兵衛獅子発祥の地である。 この地蔵尊は、諸国巡業の角兵衛獅子の一党が芸の上達と巡業中の安全を祈願した守護尊とされてきた。往時の月潟村での角兵衛獅子の上演は毎年6月24、25日の「地蔵祭り」で決まっていた。諸国を勧進してあるき、この日に帰郷し、村民に芸を披露するためであった。 この守り地蔵尊は二体あり、制作年代は古く織豊期(16世紀後半)のものとも言われ、村のたちはじまりとほぼ同時代のものと推定されている。 月潟の獅子舞は、京都や大阪では「越後獅子」、江戸では「角兵衛獅子」、新潟では「蒲原獅子」や「月潟獅子」などと呼ばれていた。 江戸時代の宝暦6年(1756)刊の『越後名寄』や文化12年(1815)刊『越後野誌』などにも、越後の大道芸の一つとして「かんばら獅子」「越後獅子」などとして紹介されている。 縞のもんぺに黒足袋、足駄がげ、頭に獅子頭、胸に豆太鼓といういでたちの子供たちが、笛太鼓に合わせてとんぼ返りや逆立ちなどの曲芸を披露した。 角兵衛獅子は組をつくって出稼ぎの巡業に出ていたが、神社仏閣の境内に小屋掛け興業することは年数回であり、ほとんどは門づけ芸としての一人芸や武家屋敷に招かれて演ずる組芸がおこなわれた。 文化8年(1811)、9代目杵屋六左衛門によって、『越後獅子』が作曲されてから広く世間に知られるようになり、江戸では春の風物詩の一つに数えられるようになった。 その最盛期は、天明から文政(1781~1830)といわれ、当時の記録には、月潟村に75軒の出稼ぎ渡世とする家があったと記されている。明治末年、月潟村からは完全に姿を消すに至った。 昭和11年(1936)保存会が設立、後継者育成が行われ今日にいたっている。 角兵衛獅子の芸はその演ずる場によってかなりの相違があったが、現在伝えられる芸は「舞込み」「俵ころがし」「乱菊」「青海波」「金の鯱鉾」「水車」「人馬」「唐子」など一人芸や組芸である。 現代では、毎年6月の月潟祭と9月の村の観光キャンペーンの折に、小中学生により舞が披露される。 村の農村改善センターには諸国巡業に出た当時の往来手形や笛、太鼓など多くの角兵衛獅子関係資料が展示され、汗と涙もにじんだであろう頭巾や手甲に、往時の蒲原の子供たちの姿をかいま見ることができる。 ☯1950年(昭和25)、西條八十作詞、万城目正作曲の『越後獅子の唄』を美空ひばりが歌いヒットする。 ☯1951年(昭和26)、美空ひばりが越後獅子の少年を演じて主演した松竹映画『とんぼ返り道中』が公開され、『越後獅子の唄』が挿入歌として歌われる。 ☯同年、美空ひばりが越後獅子の少年を演じる映画『鞍馬天狗・角兵衛獅子』と挿入歌『角兵衛獅子の唄』(西條八十作詞、万城目正作曲)が公開される。 ☯2015年(平成27)3月、「角兵衛獅子」の囃子の生演奏が、およそ40年ぶりに復活した。囃子と口上は約40年前に伝承者が絶え、それ以後は録音テープを使って舞を行ってきた。 🌌角兵衛獅子の起源江戸時代、月潟村は中ノ口川沿いで、毎年のように水害に悩まされ、人々はその中で飢えに喘ぎながら生き抜き生活を維持していた。これを見て、元水戸藩浪人の角兵衛が、子供達に芸を仕込んで、曲芸団として諸国勧進し、金を儲け生活のよすがとしたのが始まりだと言われている。 まず自分の二人の子供、角内と角助に曲芸を教え、それから村の子供達に伝授していったとされている。 村にとっては恩人の角兵衛が、ある夜誰かに殺害される。角兵衛は乱闘の末、犯人の足の指をかみ切ったと言いう。そこで、角兵衛の二人の息子は足の指のない男を捜すために、各地で曲芸をするときに足元を見ても不自然でもない逆立ちをする事を考え出したという。これが、角兵衛獅子の芸の中に逆立ちが多用される理由だと言われている。 この「角兵衛」と言う人物が実際に存在したのかは明らかでなく、村に残る伝承である。 🌌角兵衛獅子地蔵尊(村指定有形民俗文化財)守り地蔵尊は大小2体で、口伝によれば安土桃山時代(1560~1600年頃)のものといわれる。角兵衛獅子の一党が、古くから芸道上達と旅巡業中の安全を祈念し、守護尊としてきた。地蔵尊の祭礼は地蔵菩薩尊の命日である6月24日、25日に行われた。この日をめどに全国に巡業に出ていた親方たちは獅子の子をつれて村に帰って来ていた。そしてこの地蔵尊前で日頃きたえた演技を奉納し、村民に報恩、慰安をした。現在は境内がせまいので、演技は白山神社の祭礼の日に伝承芸能として披露されている。地蔵尊祭礼の日には南無地蔵菩薩の赤幟が立てられ、灯籠や提燈でにぎやかに飾られる。角兵衛地蔵尊 現地案内看板
新潟市指定有形民族文化財 この地蔵尊は角兵衛獅子の一党が芸道上達と巡業中の安全を祈願し守護尊としてきたものである。 地蔵尊の本体は大小二駆で口碑によれば、織豊時代(一五六〇~一六〇〇年頃)に作られたものといわれている。角兵衛獅子の一党は地蔵菩薩の命日である六月二十四日には、全国の巡業から帰り、地蔵尊の前で巡業中の無事を感謝し村民に対する慰安報謝のためその技芸を競演奉納したという。 平成四年十二月十日 新潟市教育委員会 《角兵衛獅子碑》旧新潟交通月潟駅の近くに、有志一同で立てた角兵衛獅子の石碑があります。ボタンを 押すと美空ひばりの『越後獅子の唄』が流れる。《角兵衛獅子の里遊歩道》月潟地区に作られた全長2.2kmの遊歩道《周辺の観光施設》《イベント》
《角兵衛獅子保存会》≪ウェブサイト≫角兵衛獅子について 越後獅子と角兵衛獅子特設サイト⦅越後からの出稼ぎ稼業⦆白山神社越後の霊峰伊夜日子(弥彦)の山を望む蒲原平野に鎮座する。創建は不詳であるが、慶長5年(1600)当時の領主が当村開発の産土神として建立されたことが記されている。祭神は伊邪那岐尊と白山比咩神。明治5年(1872)村社となる。 社殿は明治13年(1880)改築、本殿は昭和6年(1931)建築される。 旧月潟村の総鎮守さまとして崇敬され、境内では昔から祭礼によく軽業興行が行われ、人気を集めていた。現在の大祭は毎年6月第四土・日曜に行われる「月潟まつり」。郷土芸能である角兵衛獅子が奉納され、境内は多くの人で賑わいをみせる。
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角兵衛地蔵尊 白山神社 旧月潟駅 角兵衛獅子碑 郷土物産資料室