羽黒山政司 Masashi Haguroyama 新潟市
大正3年(1914)中之口村大字羽黒(当時松長村)で生まれ、本名小林正治といった。農家の三男で、父の金作が3人の子供を残して死んだので、母ミナの手一つで育てられた。 政治は郷里の松長東小学校を卒業すると家業の農業を手伝っていたが、昭和6年(1931)16歳の時、東京で叔母が経営していた銭湯「旭湯」の三助として上京した。将来はふろ屋の主人になるつもりだった。 非凡な体格を見出した立浪親方から毎日の様に勧誘され続け、角界に入り、出世することが母親孝行のもっとも近道だと口説かれ、入門を決意した。角界入りに最も強く反対したのは母親であったが、のちに最も熱心な応援者になったのも母親であった。 政治は21歳の時郷里の羽黒山をしこ名にして前相撲をとり、序の口から昭和12年(1934)5月場所、23歳で入幕するまで、各段一場所ずつで昇進するという新記録を打ち立てた。早く出世をして母を楽にさせたいという気持ちが強かったという。 以後も全て勝ち越して入幕三場所で小結、昭和15年(1940)春26歳で大関に昇進した。 昭和16年(1941)11月に吉田司家から第36代目の横綱免許が授与された。翌16年夏27歳で第36代の横綱に推された。しかし最愛の母親ミナは羽黒山の晴れの姿を見ることなく他界したのが政治の唯一の痛恨事であった。 双葉山、名寄岩とともに「立浪三馬烏」の黄金時代を築いた。両手をいっぱいに広げ、せりあがる不知火型の土俵入りを復活させて話題を呼んだ。 大正時代生まれで最初の横綱。179㎝、135キロ。筋肉質のがっちり形。双葉山の「柔」に対し「剛」といわれ、左差しで怪力を生かして右上手を引き附け、胸を合わせて吊りながら寄って攻め、時に豪快な上手投げで叩き附ける攻撃的で豪快な取り口であった。 戦時中、両国の国技館は空襲でやられ、力士たちは軍事教練を受けて軍需工場など各地へ散った。羽黒山の立浪一門は、勤労報国隊として力仕事の松根発掘に駆り出された。戦争中の食糧不足や勤労奉仕で一時は体重が90キロまでに減った。 戦前は双葉山の陰に隠れてしまったが、双葉山の引退後は第一人者として戦後の荒廃時代を支えた。 アキレス腱を2回切って一時は再起不能と言われたが見事に復活し、12年に亘り横綱を務める驚異の持久力を示した。 昭和21年(1946)に妻が亡くなり、3週間後には長男も亡くなる悲劇に遭ったが、悲しみに堪えて11月には全勝を飾った。 昭和27年(1952)、36歳での最年長全勝優勝は日本中を興奮の渦に巻き込まれた。 昭和28年(1953)1月4日目に右手親指を二瀬山に噛まれて骨折したが、他の 3横綱が不振だったので休むに休めず、添え木を当てて痛み止めを注射し、土俵へ上がる時に添え木を外す悲壮な土俵を務めた。 同年昭和28年(1953)9月17日に引退。引退するまで幕内在位39場所、戦中2回、戦後5回と7回優勝しており、うち全勝優勝が4回あった。 引退後、2代目立浪親方を襲名。多くの力士を育て、相撲界に多大な貢献をした。羽黒山は故郷の地名から四股名をとったほど郷土を愛した。 昭和44年(1969)年10月14日、東京都新宿区にある慶應義塾大学病院にて、尿毒症により死去。
《羽黒山政司記念碑外マップ》
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