宮柊二 Shuji Miya 魚沼市
1912年(大正元)8月23日〔生〕 - 1986年(昭和61)12月11日〔没〕 宮柊二は大正元年(1912)堀之内町書店「丸末」にうまれ、本名を肇といった。彼がこよなく愛し続けた郷里堀の内とは、雪国のさびしく陰鬱な土壌ではあったが、緑の丘陵に囲まれ、一筋の清流に沿って開けた宿場町は、文化の行き交うところでもあった。 柊二は、雪国のふるさと、魚野川の流れをこよなく愛した。朝夕、魚野川の川音を聞いて育った。生涯、いつも心の底に川の流れがあった。 長岡中学を出て家業を手伝ったが、失恋して20歳の時に上京。 昭和10年(1935)北原白秋主催の「多磨」が創刊されると、柊二は入会するとともに、北原白秋の秘書をし歌の道を歩みはじめた。 生活は苦しく、新聞配達をするなど職を転々と変えたが、歌はやめなかった。 昭和14年(1939)日本製鐵入社。途中、兵役に応召し、中国山西省で足掛け5年兵士として過ごす。招集解除で昭和18年(1943)に帰国、滝口英子と結婚した。 戦後昭和28年(1953)には、歌誌 コスモスを創刊する。その後歌に専念し、宮中歌会始めの他、「朝日歌壇」など新聞、雑誌歌壇の選者をする。 昭和31年(1956)12月、三鷹市牟礼に一戸を建てて移転する。両親と子供らと一緒に暮らし、昭和34年(1959)に父が亡くなる。 昭和52年(1977)に日本芸術院賞受賞を受け、日本芸術院会員となる。 晩年は糖尿病にリュウマチを併発し、さらに脳血栓で手足も不自由となり、病魔との戦いの中で創作活動を続けた。昭和61年(1986)、74歳の生涯を閉じた。 亡くなるまで、一兵卒として中国山西省の戦場での極限状態を体験したことから、戦争は悪であると歌った。 著書に、歌集『多く夜の歌』『独石馬』等がある。 昭和52年(1977)、堀之内小学校の前庭に、宮柊二の歌碑が建立された。
中越高校の校歌「雪深し その簡浄・・・」が甲子園から初めて全国に流れたのは、平成6年(1994)夏であった。この時、柊二はすでに、この世の人ではなかった。 |