中川清兵衛 Seibe Nakagawa 長岡市



弘化5年(1848)1月15日〔生〕 - 大正5年(1916年)4月2日〔没〕

長岡の商家から横浜のドイツ商館へ

中川清兵衛は、弘化5年(1848年)1月15日、現在の新潟県長岡市与板町に生まれた。実家は地元で名を知られた老舗の扇屋「中川津兵衛」の分家であったが、本家に跡継ぎがいなかったため、清兵衛は将来的に本家を継ぐべく幼少期から厳格に養育された。しかし、時代の大きな転換期である幕末から明治維新の激動は、多感な少年の運命を大きく変えることになる。明治4年(1871年)、清兵衛が15歳の時、彼は決められた商家の跡継ぎという未来を拒み、突如として家を飛び出した。向かった先は、西欧の新しい文化と活気であふれる国際貿易港・横浜であった。縁もゆかりもない地で清兵衛が職を得たのは、外国人居留地にあったドイツ商館であった。ここでボーイとして働き始めた清兵衛は、慣れない異国の言語や習慣に戸惑いながらも、持ち前の器用さと観察眼で次第に頭角を現していく。当時の日本は四民平等の新時代を迎えたばかりであり、若者たちの間には「海外の先進技術を学び、一旗揚げたい」という強い野心が満ちていた。清兵衛もまた、日々の業務を通じて西洋文明の圧倒的な力に魅了されていった。

ドイツ渡航と青木周蔵の支援

清兵衛が横浜のドイツ商館で働いていた当時、ドイツのワーゲン商会が日本で初めてビールを輸入した。当時の日本人にとって、黄金色に輝き白い泡が立つその異国の飲み物は、極めて珍しく、かつ衝撃的なものであった。このビールとの出会いが、清兵衛の人生の決定的な転機となる。「この美味なる飲み物を、自分の手で日本で造ってみたい」という強い情熱が彼の中に芽生えた。
明治6年(1873年)、チャンスが訪れる。勤務していた商館の主がドイツへ帰国することになり、清兵衛はその随行員として渡独することを決意した。しかし、当時の海外渡航には莫大な費用が必要であった。この危機を救ったのは、故郷の母親であった。息子の並々ならぬ決意を知った母は、実家に伝わる家宝の掛け軸や貴重な古美術品をすべて売り払い、旅費を工面して送り出した。
ドイツの首都ベルリンに到着した清兵衛は、後に日本の外務大臣となる青木周蔵と出会う。当時、青木は長州藩の留学生としてドイツに滞在しており、現地で日本の近代化に貢献できる有為な人材を探していた。青木は、一介の商館ボーイ上がりに過ぎない清兵衛のなかに、並外れた熱意と可能性を見出した。青木は清兵衛に対し、ビールの醸造技術こそが将来の日本に不可欠な産業技術であると説き、ベルリンの「ティボーリ醸造会社」への入社を全面的に支援した。国の未来を見据えるエリート外交官と、一介の若き職人志望の青年。この二人の結びつきが、日本のビール産業の第一歩となった。

ベルリンでの修業と下面醗酵の修得

ティボーリ醸造会社での修業は、想像を絶する過酷なものであった。当時のドイツの醸造業界は厳格な住み込みの徒弟制度が維持されており、異国から来た清兵衛に特別な配慮がなされることはなかった。朝から晩まで、そして休日すらなく、冷たい水と重い樽に囲まれる日々が続いた。言葉の壁や人種的な偏見も少なからずあったとされるが、清兵衛は愚直に耐え抜き、作業に没頭した。
清兵衛が学んだのは、当時の最先端技術である「下面醗酵(ラガービール)」の醸造法であった。これは、低温(5〜10度前後)でじっくりと時間をかけて醗酵・熟成させる方法であり、現代の日本のビールの主流となっている製法である。しかし、当時は現代のような電気冷蔵庫が存在しない。そのため、下面醗酵に不可欠な「冷却用の天然氷」の確保は、命がけの重労働であった。
冬になると、清兵衛は凍てつく湖や川へ赴き、厚い氷を鋸で切り出した。切り出した巨氷を馬車に積み込み、何往復もして貯蔵倉庫へと運ぶ作業は、手足が凍りつくような苦痛を伴った。こうした過酷な労働と、緻密な温度管理の技術を清兵衛は体で覚えていった。
2年2ヶ月に及ぶ猛修業の末、清兵衛の努力は最高の形で報われる。明治8年(1875年)5月1日、ティボーリ醸造会社のチンメルマン社長、工場長、技師長が連名で、清兵衛に醸造技術習得の免許状を授与した。豪華な羊皮紙に記されたその免状は、東洋人として初めて本格的なドイツビールのマスターブレイワー(醸造技師)として認められた証であった。

開拓使麦酒醸造所の建設と初醸造の成功

免状を手に帰国した清兵衛を待っていたのは、国家規模の壮大なプロジェクトであった。当時、明治政府は北海道の開拓に力を注いでおり、近代産業の育成を急いでいた。下面醗酵によるビール造りには、夏でも冬の氷を大量に貯蔵して使用できる寒冷な気候が不可欠であり、その適地として北海道が選ばれた。
明治8年(1875年)8月、清兵衛は「北海道開拓御用掛雇」に任命される。この時、彼はわずか19歳(数え年、満年齢では17〜18歳前後)という若さであった。この若者に、北海道産の大麦を原料とした初の国産ビール製造という国家的命題が託された。
清兵衛に与えられた任務は、単にビールを仕込むことだけではなかった。彼は醸造所の設計図を引き、必要な機械を自ら選定し、緻密な予算書を作成することまで、すべてを単身でこなした。まさに無から有を生み出す作業であった。
そして明治10年(1877年)6月、札幌の地に建設された開拓使麦酒醸造所において、ついに日本人の手による本格的なドイツビールの醸造が初めて成功した。この時、世に送り出されたビールには、当時の宣伝コピーとして「風味爽快ニシテ健胃ノ効アリ」という言葉が添えられた。冷たく冴え渡る喉越しと、健康にも良いというアピールは、新しい時代を生きる人々の心を捉えた。明治14年(1881年)に明治天皇が同醸造所を行幸された際には、清兵衛自らが緊張の面持ちで天皇のジョッキにビールを注いだという栄誉ある記録も残されている。

サッポロビールの誕生と袂を分かつ日

清兵衛が心血を注いだ開拓使のビール醸造所は、時代の潮流とともに変革期を迎える。明治19年(1886年)、政府の官営事業払い下げの方針に伴い、醸造所は民営化されることとなった。これを買い取ったのは、清兵衛と同じ新潟県(新発田市)出身の高名な実業家、大倉喜八郎であった。大倉の経営のもとで組織は改編され、これが後の「サッポロビール」の直接の誕生へと繋がっていく。
しかし、民営化と規模拡大は、職人気質の清兵衛に変化を迫った。明治20年(1887年)、会社はさらなる近代化と技術向上のため、ドイツから外国人技師マックス・ポールマンを招聘した。ここにおいて、現場の叩き上げであり、自らの手で日本のビール造りを立ち上げてきた清兵衛と、最新の学問的・組織的アプローチを持ち込んだドイツ人技師ポールマンとの間で、醸造方針や経営をめぐる激しい意見の対立が生じるようになる。
本場ドイツで過酷な徒弟制度を生き抜き、独自のプライドを持つ清兵衛にとって、後から来た外国人技師の介入は受け入れがたいものであった。
葛藤の末、明治24年(1891年)、36歳になった清兵衛は、人生のすべてを捧げてきたビール会社を退職するという苦渋の決断を下した。退職後、彼はビール造りの世界から完全に身を引いた。その後、北海道の小樽へと移り住み、新たな商売として旅館の経営を始めた。激動の表舞台から一歩退き、旅人を迎える静かな生活へと転身したのである。

名鉄の地・名古屋での日々

小樽での旅館経営を終えた後、清兵衛の晩年は名古屋の地へと移った。そこには、名古屋鉄道(名鉄)の前身企業で技師を務めていた長男が暮らしており、清兵衛はその息子の許に身を寄せ、穏やかな余生を送った。かつて日本の産業界に革命を起こした若き日の熱気は、老境に入った清兵衛の内に静かに秘められていた。
大正5年(1916年)4月2日、中川清兵衛は食道癌のため、名古屋の地で永眠した。享年69。
彼が病床で最期の時を迎えた際、あまりの苦しさから喉を潤すための「末期の水」を求められた。その時、清兵衛が望んだのは水ではなく、自分が人生を賭けてその基礎を築き上げた「サッポロビール」であった。家族は彼の希望通り、サッポロビールでその唇を湿らせたという。自らが日本の大地に根付かせた麦酒の味を喉に感じながら、先駆者は静かに息を引き取った。

受け継がれる北極星のシンボル

中川清兵衛の偉業は、没後も忘れ去られることはなかった。平成12年(2000年)6月、彼の故郷である長岡市与板町中町の中川家跡地(現在は駐輪場として利用されている場所)に、彼の功績を末長く称えるための「中川清兵衛生誕碑」が建立された。
サッポロビールの象徴として現代でも広く親しまれている「一つ星」の商標。あの赤く輝く星は、もともとは北海道開拓使のシンボルであった「北極星」に由来している。未開の荒野であった北海道の地に赴き、日本の近代化という壮大な夢に挑んだ中川清兵衛ら若者たちにとって、あの星は暗闇を照らす希望の星であり、不屈の精神のシンボルであった。清兵衛が極寒のドイツで流した汗と、北海道の地で成し遂げた情熱は、今も私たちが口にするビールの泡の中に、脈々と生き続けている。


  • 中川清兵衛の没後 年が経過しました。



    🔶墓所
    • 〔所在地〕新潟県長岡市与板町与板430甲 明元寺

    🔶中川清兵衛生誕碑
    生家である中川家跡地(現在は長岡市管理の駐輪場となっている)に彼の偉業を称えて「中川清兵衛生誕碑」が建立された。
  • 🔶サッポロビール博物館 ※GOOGLE 画像














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