中川清兵衛 Seibe Nakagawa 長岡市



中川清兵衛 弘化5年1月15日(1848年2月9日)〔生〕 - 大正5年(1916年)4月2日〔没〕

中川清兵衛は弘化5年(1848年)三島郡与板町の老舗扇屋中川津兵衛の分家の長男に生まれる。本家に子がなかったので、本家を継ぐべく養育されたのであるが、明治4年(1871)家を出て横浜に行きドイツ商館のボーイとなった。

たまたま、横浜のドイツのワーゲン商会が、初めてビールを輸入したので、ビール醸造を思い付き、明治6年商館主の帰独に付いて、ドイツに渡り、ティボリ工場で2年2ヶ月間、ビール醸造技術を学んだ。
その中川清兵衛をみいだし、ビール醸造を学ぶようにすすめて必要な資金を援助したのは、後に外務大臣となる青木周蔵でした。
ひたすら、技術習得に専念し、チンメルマン社長他工場長・技師長連名の、豪華な羊皮紙の免許状を与えられた。

明治8年(1876年)帰国するや、明治8年8月には北海道開拓御用掛雇に任命され、若干19歳の清兵衛に北海道の大麦を原料とするビール製造をまかされることになった。清兵衛は醸造所の背系、機械、予算などすべて自ら作成し明治10年(1878)6月、日本人の手によるドイツビールの醸造に初めて成功した。
「風味爽快ニシテ健胃ノ効アリ」は、中川が造ったビールの当時の宣伝コピーだ。1881(明治14)年に明治天皇が醸造所を行幸された際には、中川自ら天皇のジョッキにビールを注いだという記録も残っている。

開拓使のビール醸造所は命じ19年官営から民営に払い下げられ、新発田市出身の実業家大倉 喜八郎の経営に移りサッポロビールの誕生となった。明治20年(1888)に招いたドイツ人技師のマックス・ポールマンと清兵衛は意見が合わず36歳の時ビール会社をやめて小樽で旅館を経営した。

平成12年(2000)6月に、中川清兵衛が生まれた中町、中川家跡地(現在の駐輪場)に清兵衛の偉業を称えて「中川清兵衛生誕碑」が建設された。

















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