中野貫一 Kanichi Nakano 新潟市



弘化3年9月8日(1846年10月27日)〔生〕 - 昭和3年(1928年)2月25日〔没〕

一代にして巨億の富を築いた石油王中の貫一は、あらゆる困苦にもくじけず、鉄石の信念で初志を貫いた越後人の典型ともいう人物である。 貫一は弘化3年(1846)山間の金津村(現新潟市秋葉区金津)に生まれた。
家は庄屋役のかたわら、付近に自然にわきでる草水油(石油)を採取して販売していた。しかしその量はわずかなものであった。父の死去に伴い14歳で後を継いだ。

明治5年(1873)日本坑法が発布され、楠本県令は大いに石油採掘を奨励した。
そこで貫一は明治6年(1874)固い決意で石油事業に着手した。しかし採掘は失敗の連続、10年間で100本近く掘ったが成果はなく、資金的にも窮地に追い込まれ、家運は次第に傾いた。
艱難辛苦13年の末、明治18年初めて本格的採油に成功した。長男忠太郎(1862〜1939)が「石油が噴き出す夢を見た」という場所を掘ってみると、地下22メートル地点から石油が噴出したのだ。その後、貫一は塩谷地区にも進出し、石油井戸の掘削を次々と成功させる。

そしてようやく事業が軌道に乗りかけたとき、思いもよらない塩谷事件(坑法違反事件)に巻き込まれ、採掘禁止と借地権没収の処分が下る。
貫一ら同業者はこの命令を不当として請願運動を続けたがすべて却下された。同業者が運動から離脱する中で、一人貫一は命令の不当性を行政裁判所に訴え、明治24年(1892)ついに勝訴した。
塩谷事件解決を機に、貫一は,明治36年(1904)には米国から機械式の掘削機を購入し、石油生産量を大幅に増やした。金津・塩谷両地区を含む一帯の新津油田の年間産油量は、1917年には12万キロリットルとなり、日本一の産油地になった。

中野興業会社と改め、日石・宝田と並ぶ三大石油会社に発展した。一業に徹した石油王中野貫一は昭和3年(1928)2月、83年の生涯を閉じた。貫一は故郷を愛し、病死するまで生涯を地元で終えた。

中野貫一は、現在でも新潟市秋葉区金津地区の住民からは「中野様」と呼ばれ慕われているという。新津油田最盛期の明治末期には、約1500人の従業員のほとんどを地元や周辺地域から雇用。晩年には中野財団を設立し、貧しい学生への奨学金貸与や地元小学校に講堂を寄付するなど慈善事業に力を入れていた。貫一が住んでいた屋敷は「中野邸美術館~もみじ園」として開放されている。中野邸美術館はその後、2017年4月20日、「中野邸記念館」に名称を改めている。

平成30年(2018)10月15日、文化財保護法に基づく「新津油田金津鉱場跡」の史跡指定が官報告示された。

  • 「中野邸記念館」(旧中野邸美術館)
≪現地案内看板≫
中野邸について

わが国で石油に関する最も古い文献といえば日本書紀に「天智天皇七年此の国より燃ゆる土と燃ゆる水を献ず」とある。この年は西暦にすれば六六八年で今を去る一三一〇年余りも前のことである。
当新津市の石油の歴史は古く、文献、史跡等も多く保存され、世界的にも石油発祥の地として知られている。
中野家は、越後国蒲原郡会津村で代々庄屋をつとめていた大地主であったが、文化元年(一八〇四)中野貫一翁の曽祖父次郎左衛門が草生水油(石油)採取権を買い取り「泉舎」と号して、当時のいわゆる「草生水油稼人」をも業とするようになった。
翁は弘化三年(一八四六)に生まれた。十四才にして父を亡くし庄屋と泉舎を引き継いだ。明治六年「石油坑法」が公布されるや直ちに新潟県庁に石油試掘を出願、許可を得て翌七年(翁二十八才)九月、自分の所有地内に草生水場を開坑して若干の出油に成功したが、それも束の間、その後の試掘は失敗の連続であった。そのため家産は傾き親族、知己の多くはあてもない冒険事業をやめるよう忠告したが、翁は初心を捨てず遂に最初の試掘から二十九年目の明治三十六年はじめて商業規模の油田を掘り当て会津油田(新津油田の一部)開発の端を開いた。
それ以来当時の三大石油会社であった日本石油および宝田石油に次ぐ大産油業者に成長、明治大正時代に「石油王」と呼ばれるに至った。

中野貫一処世訓
「無理、驕り、朝寝、かけごと、つつしみて、生業はげめば子孫栄えむ」
昭和三年 没 八十五才
新津観光協会













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