横越村 新潟県中蒲原郡横越町


亀田郷は、阿賀野川・小阿賀野川・信濃川に囲まれ、耕地の7割が海抜20センチからマイナス40センチの低湿な土地である。横越村は横越し島と呼ばれた亀田郷の最上流部に位置し、江戸時代を通じてその中心地であった。

阿賀野川の各所には河渡があり、大字沢海には会津船が出入りする河渡、大字横越には水原郷への川とが四箇所あったという。「横越」の地名は阿賀野川水運の立ての交通線に対して、阿賀野川を横断する交通線の要地であることから生じたものとする考え方もある。

しかし、大河の渡し船は危険も多く、明治8年(1875)、横越村の有識者たちは株式会社「就安社」を設立して、横越村から対岸の京ヶ瀬村に向かって一本の橋を掛けた。橋の渡り賃を取って建設資金を償還していくという発想もユニークだったが、何よりも交通上の夢の実現であり、それにふさわしく投じの県令楠本正隆が「横雲橋」と名づけたのであった。その後4回架けかえられたが、現在の横雲橋は昭和39年(1964)に寛政下永久橋で、一級国道49号線中でも特に重要な橋となっている。(※現在は新横雲橋にその地位を譲っている)

亀田郷はまた、水害の危険と戦い津図気手北が、小阿賀野川沿いの大字木津では、明治29年(1896)と大正2年(1931)の有名な木津切れの話が語り伝えられている。第二次大戦の前後に進行した阿賀野川改修と亀田郷土地改良事業で水害が克服されるとともに、広域推理施設も完成した。沢海揚水機上からは木津方面に用水路が延び、生前と区画された美田には直線道路が貫いている。

                                (大塚哲著)