小唄勝太郎 



1904(明治37)年11月6日〔生〕 - 1974(昭和49年)年6月21日〔没〕

1904年(明治37年)11月6日、新潟県中蒲原郡沼垂町(現新潟市中央区)生まれ。
本名は眞野かつ。幼いころに母親と死別し、10歳のときに料亭鶴善桜の養子となる。新潟花街古町で師匠の下で三味線、長唄、踊りなどの修練を積む。
1929年(昭和4年)、年季奉公が明けると、芸者で身を立てようと上京する。東京の葭町(よしちょう)に籍を置き、勝太郎を名乗る。当時民謡歌謡がレコードやラジオで流行しており、勝太郎にも声がかかり、1931年(昭和6年)、日本ビクターと正式な契約を結び、レコード歌手としてデビューする。
1971年(昭和46年)、紫綬褒章受章。さらに1974年(昭和49年)には、勲四等宝冠章を受章。
肺癌のため、1974年(昭和49年)6月21日に69年の生涯を閉じた。
2005年(平成17年)鶴善桜の跡地に石像と顕彰碑が完成する。





代表曲
  • 『島の娘』(昭和7年12月)
  • 『大島おけさ』(昭和8年6月)
  • 『東京音頭』(昭和8年7月)共唱:三島一声
  • 『明日はお立ちか』(昭和17年3月)
記念碑
  • 小唄勝太郎顕彰碑
    〔所在地〕新潟市中央区沼垂東4丁目 鶴善桜の跡地
小唄勝太郎の碑 碑文

 小唄勝太郎は、明治三十七年十一月六日生まれ 沼垂に育ち 本名は佐藤カツ 六歳に母を失い 沼垂の老舗 料亭「鶴善」の幼女となり竹中カツとなる 昭和三十五年 戦地慰問で知り合った真野軍医と結婚
 昭和七年に上京 「島の娘」を始め 「会津磐梯山」で売り出し 「東京音頭」「明日はお立ちか」は 空前の大ヒットとなる
 戦後 NHK紅白歌合戦に三回出場するなど歌謡界で活躍 その功績で昭和四十六年に紫綬褒章を受賞 昭和四十九年勲四等宝冠章を受賞 同年六月二十一日六十九才で没し 東京都中野区龍興寺に永眠している
 歌手として成功した後も 盆暮に帰省し 墓参 同級会への出席 母校沼垂小学校にグランドピアノを寄贈するなど愛郷心に富んでいた
 郷土の誇りとして その名声を讃え ここに建立する

平成十七年九月
小唄勝太郎生誕百年記念顕彰碑を建てる会
会長 後藤昇誌
八島敏弥書

墓所
  • 龍興寺
    〔所在地〕 東京都中野区上高田1-2-12


略歴
・1904年(明治37年)、新潟県中蒲原郡沼垂町(現在の新潟市中央区)生まれ
・1931年(昭和6年)、日本ビクターからレコード歌手としてデビュー
・1932年(昭和7年)、た『柳の雨』が大ヒット
・1933年(昭和8年)、『島の娘』は発売から3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット
・1934年(昭和9年)、歌舞伎座で「小唄勝太郎」襲名の披露興行
・1936年(昭和11年)、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。『娘船頭さん』『あんこ椿』と順調にヒットを続ける
・1938年(昭和13年)、戦地で病に倒れる
・1942年(昭和17年)、『明日はお立ちか』がヒット
・1946年(昭和21年)、コロムビアに移籍
・1948年(昭和23年)、テイチクに移籍、映画主題歌『大島情話』がヒット
・1949年(昭和24年)、結婚
・1950年(昭和25年)、アメリカ、ブラジルへ親善使節として赴く
・1953年(昭和28年)、NHK紅白出場
・1955年(昭和30年)、NHK紅白出場
・1956年(昭和31年)、NHK紅白出場
・1961年(昭和36年)、東芝に移籍
・1971年(昭和46年)、紫綬褒章受章
・1974年(昭和49年)、勲四等宝冠章を受章。6月東京都府中市の自宅で69年の生涯を閉じた



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1933年に大流行し、以後も盆踊りの定番曲として長く親しまれている「東京音頭」。今作ではその歌謡曲バージョンや英語詞版、「北海道音頭」などご当地用に替え歌にしたものが収められる。