貞心尼 ( ていしんに ) Teishin ni



寛政10年(1798年)〔生〕 - 明治5年2月11日(1872年3月19日)〔没〕

孝室貞心尼は、長岡藩 奉行組士 奥村五兵衛の次女・ます として寛政10年(1798年)、越後国長岡(現:新潟県長岡市)に生まれた。小さいときから学問好きであったという。
17歳で望まれて北魚沼郡小出島竜光村(北魚沼市堀之内)の医師関長温の元に嫁いだが、死別して実家に戻った。
幼い頃見た柏崎の海を忘れかね、不幸の心を慰めようと柏崎に赴いた。25歳のとき、柏崎郊外の下宿村新出(しで)の山というところに庵を結んでいた眠龍、心龍の二人の尼僧を訪ねて、そこで剃髪した。
28歳の時に師の許を離れて古志郡福嶋村の閻魔堂に住むことになった
文政10年(1827)、貞心尼は三島郡島崎村の木村家別舎の良寛へ書と手まり遊びの歌を贈った。良寛は早速「つきてみよ、ひふみよいむなやここのとを、とをとおさめてまたはじまるを」と返歌した。これを機会に70歳の師と29歳の尼との交際が始まり、時折良寛の許を訪れて歌道、仏道の教えを受けた。そして4年後に尼の見守る中で良寛は遷化した。
天保6年(1835)5月、貞心尼38歳のとき、良寛との歌を自筆の歌集『蓮の露』にまとめる。
天保9年(1838)眠龍尼が亡くなった後、長岡の閻魔堂からこの釈迦堂に移り、心龍尼がなくなった後、天保12年(1841)洞雲寺泰禅和尚から得度を受け、正式に釈迦堂の庵主となった。
嘉永4年(1851)、不幸にして留守中火災にあい、歌仲間でよき理解者であった山田静里翁の支援で、広小路覚光脇に不求庵が造られてそこに移った。
二人の尼弟子と平安な歳月を送り、明治5年(1872)2月10日、柏崎市不求庵で没した。75歳であった。墓は洞雲寺裏山の墓地にある。
墓には、
  • くるに似てかえるに似たりおきつ波
という辞世の句が刻まれている。

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☯2018年11月、良寛生誕260年、貞心尼生誕220年に合わせ、貞心尼の愛と別れをテーマに、三味線奏者、鶴家奏英さんが元民謡雑誌編集者、押田雅治さんの詞に曲を付けた邦楽「閻魔(えんま)の蝶」が完成



  • 🔶墓所
    〔所在地〕新潟県柏崎市常盤台5-1 洞雲寺

  • 🔶記念碑
    • 貞心尼歌碑「あさげたく」
      碑文『朝げたく ほどは夜のまに ふきよする おち葉や風の なさけなるらむ 貞心尼』
      • 〔所在地〕新潟県長岡市福島町503近傍

      ≪案内板≫
      貞心尼歌碑

      朝げたく ほどは夜のまに ふきよする
      おち葉や風の なさけなるらむ
      貞心尼

      貞心尼は 長岡藩士奥村五兵衛の娘に生まれ 一度嫁いだが夫に死別し 剃髪してのち この地の閻魔堂に移り 庵主となる

      三島郡島崎村(現在の和島村島崎)の木村家に晩年の良寛を訪ね 歌道の弟子となる 良寛没後 「蓮の露」を著して 良寛の名を世に広めた 柏崎真光寺の不求庵で 明治五年二月七十五歳で没した

      加賀の千代女 京の連月尼と共に幕末女流三大歌人に数えられる 昭和三十二年十一月 福島町貞心尼思慕会と長岡童話研究会が この地に居住させるとき詠んだ歌を遺稿「もしほ草」から選出し 碑に刻して建立した

      長岡市教育委員会

    • 貞心尼草庵(新閻魔堂)
      貞心尼が30歳のころから柏崎に移るまで暮らしたという閻魔堂をしのぶ草庵を再建したもの。 近くには、貞心尼の詠んだ「朝げたくほどは夜のまにふきよするおちばや風のなさけなるらむ」の歌碑や、市文化財に指定されている指定樹齢400~500年の大けやきの木もある。

  • 🔶ゆかりの地
























良寛と貞心尼新装版

良寛と貞心尼新装版

  • 作者:加藤僖一
  • 出版社:考古堂書店
  • 発売日: 2017年10月