貞心尼 Teishin ni
寛政10年(1798年)〔生〕 - 明治5年2月11日(1872年3月19日)〔没〕 孝室貞心尼は、長岡藩 奉行組士 奥村五兵衛の次女・ます として寛政10年(1798年)、越後国長岡(現:新潟県長岡市)に生まれた。小さいときから学問好きであったという。 文化11年(1814)17歳の時、望まれて北魚沼郡小出島竜光村(北魚沼市堀之内)の医師関長温の元に嫁いだが、死別して実家に戻った。(一説では離別したともいわれている。) 幼い頃見た柏崎の海を忘れかね、不幸の心を慰めようと柏崎に赴いた。23歳のとき、柏崎郊外の下宿村新出(しで)の閻魔寺に眠龍、心龍の二人の尼僧を訪ねて、そこで剃髪し、共同生活をしながら、厳しい修行を積んだ。 文政10年(1827)30歳の春、師の許を離れて古志郡福嶋村の閻魔堂に住むことになった この年の秋、貞心尼は三島郡島崎村の木村家別舎の良寛へ書と手まり遊びの歌を贈った。良寛は早速「つきてみよ、ひふみよいむなやここのとを、とをとおさめてまたはじまるを」と返歌した。これを機会に良寛の歌の弟子となった。70歳の師と30歳の尼との交際が始まり、時折良寛の許を訪れて歌道、仏道の教えを受けた。そして4年後の天保2年(1831)1月6日、尼の見守る中で74歳で良寛は遷化した。 天保6年(1835)5月、貞心尼38歳のとき、良寛の歌や句を整理したものに、自分が唱和した歌を書き添えた142首を収め『蓮の露』にまとめた。 天保9年(1838)眠龍尼が亡くなった後、長岡の閻魔堂から柏崎の釈迦堂に移り、心龍尼がなくなった後、天保12年(1841)洞雲寺泰禅和尚から得度を受け、正式に釈迦堂の庵主となった。 嘉永4年(1851)、不幸にして留守中火災にあい、歌仲間でよき理解者であった山田静里翁の支援で、広小路覚光脇に不求庵が造られてそこに移った。 二人の尼弟子と平安な歳月を送り、明治5年(1872)2月10日、柏崎市不求庵で没した。75歳であった。墓は洞雲寺裏山の墓地にある。 墓には、
☯2018年11月、良寛生誕260年、貞心尼生誕220年に合わせ、貞心尼の愛と別れをテーマに、三味線奏者、鶴家奏英さんが元民謡雑誌編集者、押田雅治さんの詞に曲を付けた邦楽「閻魔(えんま)の蝶」が完成
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