1881(明治14)年8月1日 〔生〕- 1956(昭和31)年11月21日〔没〕 會津八一は1881年(明治14)新潟市古町の料亭・会津屋で次男として生まれた。名は八一(弥市)、号は八朔郎、渾斎、秋艸道人という。8月1日に生まれたので「八一」と名付けられた。 父は葛塚の豪農市島助次郎の三男政次郎。母は会津友五郎の娘イクという。 1899年(明治32)新潟中学校卒業。小さい頃は百姓になるといっていた八一であるが、早稲田大学に進学する。 1906年(明治39)早稲田大学英文科卒業。同年9月中頸城郡板倉村(現上越市板倉区)有恒学舎※地図(現在の新潟県立有恒高等学校の前身)の英語教師となり4年間教鞭をとる。この間、八一はたびたび奈良へ旅行した。 1908年(明治41)に最初の奈良旅行をおこなって、奈良の仏像や仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。 1910年(明治43)坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。 1914年(大正3)春、八一が転居先の東京小石川「秋艸堂」※ストリートビューで郷里越後から受け入れた学生3人に「心得」を示す(「学規」碑として後に残される)。 1924年(大正13)、奈良を主として詠んだ絶唱、初の歌集『南京新唱』を刊行。 1926年(昭和元)、早稲田大学文学部で東洋美術史を講じた。 1931年(昭和6)には早稲田大学文学部教授となる。 1933年(昭和8)3月末、八一51歳の時、弟戒三の妻キミの妹にあたるきい子(当時21歳)が身の回りの世話を始める。八一は若いころ、女子画学生に恋したが実らず、死ぬまで独身で通したという。 同年、仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年(昭和9)に文学博士の学位を受ける。文献と実物の併行、豊富な美術資料の駆使、広く大陸の文化現象と時代的変化と関連させ、独創的な識見と深い洞察は、その業績とともに学問研究方向を定着させた不滅の功績である。 1940年(昭和15)、歌集『鹿鳴集』を刊行。続いて1941年(昭和16)、書画図録『渾齋近墨』、1942年(昭和17)、随筆集『渾齋随筆』、1944年(昭和19)、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。 「文字は読んで意志を伝達するにあり、書道はその美的表現なり」。この芸術論を一貫し、篆書の筆意をもって構成した豪放闊達にして天下を併呑するような書が作られた。保守派を超越した高格な書風は長く書道史に輝くであろう。 1944年(昭和19)2月、きい子を養女とする。 1945年(昭和20)4月、早稲田大学教授を辞任。空襲により東京下落合の家を空襲で焼かれ、半生かけて集めた蔵書、資料すべてを失った。秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。 5月上旬から遠縁にあたる旧中条町西条町の丹呉康平方に、きい子共々身を寄せた。丹呉家は庄屋を努めた旧家で広い屋敷であった。丹呉康平方ですごした1年余りの間に多くの作品を残している。 前から結核を患っていたきい子の病状が悪化し、余命1ヶ月と宣告される。八一は、きい子を伴って、結核病の感染をおそれ、近くの観音堂へ移った。雨模様なりしをきい子をリヤカーに乗せ、七往復にて観音堂へ引っ越したと記している。 7月、養女に向かえたきい子(享年33歳)が病没。八一は63歳だった。山鳩の鳴く声をききながら八一が看取った。野辺送りし、翌朝、八一がひとりで骨を拾った。八一は観音堂に約百日じっと籠り、深い悲しみと孤独の中で、その慟哭を詠んだ21首は絶唱といわれて いる。その歌集が『山鳩』だった。 1946年(昭和21)5月、坂口献吉(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)から懇願され「夕刊ニイガタ」の社長を引き受ける。 7月25日より、伊藤文吉別邸(現、北方文化博物館新潟分館))内の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼んで、永眠するまで暮らした。 1948年(昭和23)、早稲田大学名誉教授。 1949年(昭和24)、従兄弟中山後郎の娘蘭を養女とする。 1951年(昭和26)、新潟市名誉市民。 1956(昭和31)年11月21日、76歳で没した。「会津八一全集」10巻、「春日野」はじめ遺墨集、研究書は多い。新潟県の地方紙「新潟日報」の題字は会津八一が揮毫したもの。 ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀ ☯1988年(昭和63)、見附市新潟町386 天徳寺内に会津八一「学規」碑建立 「一.ふかくこの生を愛すべし、一.かへりみて己を知るべし、一.学芸を以って性を養ふべし、一.日日新面目あるべし」 ☯2012年(平成24)9月、和歌「うまやとの みこのまつりも ちかつきぬ まつみとりなる いかるかのさと」の歌碑が奈良県斑鳩町、法隆寺に設置される ☯2014年(平成26)8月、会津八一記念館がメディアシップに移転 ☯2016年(平成28)2月、会津八一の揮毫碑「春のくさ暮れて あきのかせにおとろき 秋のかせやみてまた はるのくさにもなれり」が古町通7番町のアーケード街に移設 🔶著作
🔶歌碑 🔶墓 瑞光寺 🔶会津八一記念館 ※GOOGLE 画像 🔶北方文化博物館新潟分館 ※GOOGLE 画像 明治末期に北方文化博物館の七代目伊藤文吉氏が取得した建物で、この中の洋館で、八一はその晩年を過ごした。現在は博物館として、八一の書や資料、良寛の書を展示している。
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