1883年(明治16)7月10日〔生〕 - 1950年(昭和25)5月8日〔没〕 御風(本名相馬昌治)は、明治16年(1883)7月10日、新潟県糸魚川町大字大町(現在の新潟県糸魚川市大町2丁目)で、 父徳治郎と母チヨのひとり息子として生まれた。家は代々、神社や寺の建築する宮大工だったが、父は町議、助役のあと糸魚川町長を務めた。 明治29年(1896)に高田中学に入学、3年のとき、御風は母を亡くした。中学校在学の時から自らを「御風」と名づけ、すでに短歌を詠んでいた。 5年のとき「竹柏会」に入会、文学的才能は一挙に開花し、明治33年(1900)には高田新聞の短歌の選者となった。 卒業すると京都へ行き、旧制三高を受験したが失敗。その後、明治39年(1906)、上京し早稲田の前身、東京専門学校へ入学した。早稲田に入ると、岩野泡鳴らと文芸雑誌『白百合』を創刊し、編集に携わった。 御風は明治35(1902)、東京専門学校予科へ入学、そこから大学文学科へ進んだ。新潟県出身では、一年先輩に小川未明、同期に会津八一がいた。 早稲田大学英文学科を卒業、恩師島村抱月のもとで早稲田文学社に入り『早稲田文学』の編集を担当。評論や小説、翻訳の仕事をしていた。 明治40年(1907)、三木露風や野口雨情らと「早稲田詩社」を結成。 「口語自由詩」を提唱し、自由な言葉とリズムによる新しい詩のメロディーを主張した。童謡も手掛け、 大正11年(1922)に作詞した「春よ来い」では「赤い鼻緒のじょじょはいて」「おんもへ出たいと待っている」と、じょじょ(ぞうり)とか、おんも(戸外)などの幼児語も取り入れ、愛唱された。 また、同40年には早稲田大学創立25周年に際し、校歌「都の西北」を作詞した。藤田茂吉次女テルと、24歳で結婚したのもこの年であった。見合いもせず、お互いの写真を交換しただけでの結婚式だった。 大正初期、大ヒットした「カチューシャの唄」を島村と合作で作詞し、貧乏書生だった中山晋平を作曲家として世に出したのも御風であった。中山の力量を見出した御風は、その後35年間に中山とのコンビで百近い歌を作っている。 大正5年(1916)春、32歳で突如、中央の文学界における何もかもを投げ捨てて、糸魚川に帰った。トルストイやツルゲーネフなどのロシア文学の翻訳を通じて人道主義に傾倒、島村抱月のもとでの自然主義。個人革命から社会革命をと主張する「巷に出でよ」を『早稲田文学』に書いた。だが、それは大逆事件以来の官憲の弾圧が強化されていくなかで、手厳しい批判を受け、自分の思想の行き詰まりと挫折を感じての東京退却であった。御風は『還元録』を書いて過去と決別した。 帰郷後、御風は、ライフワークとなった良寛研究、執筆読書の生活を過ごした。『大愚良寛』を出帆、良寛の生涯だけでなく、思想、芸術にもふれた画期的な著作で、さらに『良寛和尚遺墨集』『良寛和尚歌集』はじめ、児童向けに『良寛さまのお話』などニ十冊の本を書いた。 地方から全国に資料・文化を発信した。良寛の紹介と研究は御風の功績が大であると言われる。 この他にもいろいろな業績を残した御風だったが、昭和25(1950)年5月7日、突然脳いっ血で倒れ、翌8日、その66年間の生涯を閉じた。晩年は、心を鎮めるために酒を飲んだ。ご飯を食べずに酒だけで夜を徹することもあったという。 御風は亡くなったが、彼の功績が近代文学の発展につながったことは言うまでもない。新潟県が誇る代表的な文人であるといえる。 御風は生涯で550曲を超える作詞を手掛け、音楽界に大きな足跡を残した。特に、明治40年 (1907)、第1作となった早稲田大学校歌『都の西北』を皮切りに、全国で約230曲の校歌の作詞を手がけたとされ、県内が最も多く144曲。、御風は「全国最多の校歌作詞者」と呼ばれた。 都の西北
早稲田大学は創立25周年を迎え、記念に校歌をつくることになり、全学から歌詞を募集したが審査員の坪内逍遥や島村抱月の気に入る作品がなかった。そこで、当時『早稲田文学』の編集をしていた御風に白羽の矢があたった。御風は固辞した、結局10日ほど苦吟して書き上げたのが「都の西北・・・」だった。作曲担当の東儀鉄笛の意見を聞き、海外の大学の校歌なども調べた。坪内は絶賛したという。各節の最後に「ワセダ、ワセダ、ワセダ」のコールを加筆したのは坪内だった。「都の西北」は不朽の名作として今なお歌い継がれている。晩年、御風はラジオから「都の西北」のメロディーが流れると、感動して泣いたという。 ヒスイの発見御風は、糸魚川でヒスイ発見のきっかけをつくったことでも知られている。御風は『古事記』などに出てくる奴奈川姫(ぬなかわひめ)伝説と、『万葉集』にある「ぬなかわの底なる玉」の歌から、糸魚川地域にひすいが産出するのではないかと考えていた。1935(昭和10)年8月12日。御風の仮説を伝え聞いた地元の伊藤栄蔵が「小滝川とその支流の土倉沢の合流点に白地に緑の部分がある堅い石を見つけ、やっとの思いで割り取って、それを御風に届けた」という。(日本の国石「ひすい」ーバラエティに富んだ鉱物の国ーより)バタバタ茶御風は、糸魚川に古くから伝わるバタバタ茶をとても良い風習だと愛飲したという。書籍「野を歩むもの」に書き記している。🔶歌碑
🔶記念碑 🔶墓所 新潟県糸魚川市清崎 大町霊園 🔶糸魚川市 糸魚川歴史民俗資料館 ※GOOGLE 画像 〔所在地〕 新潟県糸魚川市一の宮1丁目2−2 〔特徴〕通称・相馬御風記念館といい、相馬御風(そうま・ぎょふう)の関係資料を中心に、御風と親交のあった人々の作品や古書画などのコレクションを収蔵・展示。 🔶相馬御風宅(生家) ※GOOGLE 画像 〔所在地〕 新潟県糸魚川市大町2丁目10番1号 🔶著作 定本 相馬御風歌集 大愚良寛 新装校註版 良寛さま 考古堂書店 一茶と良寛と芭蕉 (1951年) (創元文庫〈A 第51〉) 🔶唱歌・童謡
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