堀部安兵衛 新発田市




堀部 武庸(ほりべ たけつね) 寛文10年(1670年)5月〔生〕- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)〔没〕

堀部安兵衛武庸は越後新発田藩士中山弥右衛門の長子として寛文9年(1688)新発田で生まれた。父の中山弥次右衛門は新発田藩の家臣でしたが、お役目中に失火があり
責任をとって浪人しています。安兵衛は父の死後、剣術修業の為、1688年(元禄元年)に江戸に出る。
1691年(元禄4年)には早くも玉木一刀斎道場師範となる。そして1694年(元禄7年)2月には叔父菅野六郎右衛門が村上兄弟に果し合いを挑まれて重傷をおった際、安兵衛がかけつけて村上兄弟を切ってすてた。これが有名な「高田馬場の決闘」として知られているが、これに見惚れた赤穂藩浅野家江戸詰藩士堀部弥兵衛は娘妙との婚儀を申し入れた。安兵衛は「中山の姓は捨てられない」と当初断っていたが、弥兵衛の熱心さに感じ入って受け入れ、こうして堀部安兵衛は禄高200石の赤穂藩江戸詰藩士となった。
1701年(元禄14年)3月主君浅野長矩が殿中で刃傷に及び赤穂藩は断絶、相手方の吉良にお咎めないことを知ると真っ先に吉良邸討入を進言。そのために浪士たちは身分や名前を変えたが、安兵衛は剣術指南役として長江長左衛門と改名して江戸八丁堀でその機会を伺っていた。
 1702年(元禄15年)12月14日に見事吉良邸に討ち入り上野介の首級をあげ本懐を遂げると、安兵衛は他の10人とともに松山藩主松平邸へお預けとなり、1703年(元禄16年)2月4日に切腹して果てた。享年34歳。遺体は泉岳寺に葬られた。法名は刀雲輝剣信士。
新発田市の中山家の菩提寺に長徳寺には安兵衛の墓や手植えの松、愛用の印籠などが残っている。また新発田城本丸表門前には安兵衛の銅像が建っている。


□記念碑
  • ①堀部安兵衛武庸銅像
  •     新発田市大手町4
  • ②堀部安兵衛生誕の地碑
  •     旧県立新発田病院右手
  • ③堀部安兵衛武庸之碑  水谷町(現在の八丁堀一丁目)に居住していた
        東京都中央区八丁堀1-14
  • ④堀部武庸加功遺跡碑
        東京都新宿区西早稲田3-5-43 水稲荷神社境内
□墓所
    高輪泉岳寺


堀部安兵衛伝承館
〔所在地〕新発田市大栄町7-9-32 清水園内
〔特徴〕安兵衛直筆の書簡や愛用した刀など約30点を展示

堀部安兵衛生誕地まつり
〔所在地〕新潟県新発田市 新発田城ほか市内各所
〔時期〕5月1日~31日





略歴
  • 元禄7年2月11日、高田馬場の決闘
  • 元禄7年閏5月26日、赤穂浅野家家臣・堀部金丸からの婿養子の願い出が浅野家から認められる
  • 元禄7年7月7日、金丸の娘・ほりと結婚して、婿養子となる
  • 元禄14年3月14日、主君・長矩が江戸城松之大廊下で高家・吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。武庸は江戸急進派のリーダー格となる
  • 元禄14年11月10日、筆頭家老・大石良雄と武庸は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談
  • 元禄15年6月29日、武庸は事態によっては大石良雄を討とうと京都に入る
  • 元禄15年7月18日、浅野長広(浅野大学)の浅野宗家への永預けが決まり浅野家再興が絶望的となる。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した
  • 元禄15年8月10日、武庸は江戸に戻る
  • 元禄15年8月12日、同士を集め京での決定を伝える
  • 元禄15年12月14日、本所松阪の高家・吉良義央の屋敷へ討ち入りを果たす
  • 元禄16年2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、武庸は伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34

    平成28(2016)年5月、堀部安兵衛の物とみられる印籠が、かつて新発田藩で酒造業を営んでいた東京都練馬区の相馬家で発見される  







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