堀部安兵衛 Yasubee Horibe 新発田市




@じゃらん
堀部 武庸(ほりべ たけつね)(旧姓中山安兵衛応庸) 寛文10年(1670)5月〔生〕- 元禄16年2月4日(新暦1703年3月20日)〔没〕

1670年(寛文10)、堀部安兵衛武庸(旧姓中山安兵衛応庸)は越後新発田藩士中山弥次右衛門の長子として新発田藩家中屋敷の外ヶ輪(現、大手町5丁目)で生まれた。ほかに兄弟は姉が3人いた。講談などでもてはやされ人気があったことから、誕生地については、何かゆかりのものを挙げて名乗り出るところが出ている。しかし、安兵衛自身、生国は越後国新発田としているので、異説をはさむ余地はない。新発田に住んだのは、少年時代の12、3歳ごろまでである。


父の中山弥次右衛門は新発田藩で200石取りの家臣であった。弥次右衛門は当初300石取りであったが、実直で上役にも直言する性格が災いし煙たがられ、200石に減らされたともいう。
天和3年(1683)第3代藩主溝口重雄の治世、城の巽櫓の管理を任されていたのに失火させ櫓を失ってしまったため藩から追放処分を受け浪人となる。安兵衛13歳の時である。
弥次右衛門は新発田藩から庭の設計も頼まれるほど造園の素養があったという。弥次右衛門は安兵衛に文武の教えだけでなく、新発田城下の清水園※ストリートビューなどの庭園を見せ、造園の素養も伝えている。
5月25日 、浪人直後の不遇のうちに父中山弥右衛門が死亡する。一説では、家名断絶の処分を受け、失意から切腹したともいう。
母は安兵衛を出産後、産後の肥立ちが悪く死亡している。母の実家は新発田藩重臣溝口四郎兵衛家で、四郎兵衛の妻は初代藩主秀勝の娘という毛並みの良い家柄であった。孤児となった安兵衛は、母方の祖父溝口四郎兵衛盛政に引き取られた。
天和5年(1685)、盛政が死去したため、姉の嫁ぎ先、中蒲原郡牛崎村(現新潟市南区庄瀬)の豪農の長井弥五左衛門の元へ引き取られ、文武に励んだといわれている。
✦長井家屋敷跡
〔所在地〕新潟市南区牛崎79-1 ※地図 ※ストリートビュー
元禄元年(1688)に、田舎にいては家名再興はおぼつかないと剣術修業の為、長井家の親戚佐藤新五右衛門を頼って江戸に出る。新発田を発つにあたって中山家の菩提寺の長徳寺に亡き父母の供養を頼み、遺愛の印籠と石台松を寺に寄進したという。現在長徳寺本堂前の老松は安兵衛の松と伝えられている。
✦長徳寺
中山家の菩提寺で、安兵衛の父母の墓がある。安兵衛が新発田から江戸へ発つ際に植えたといわれる松の木があるが、枯死したため現在は2代目の松である。
また境内には義士堂と四十七士像がある。
〔所在地〕新発田市大栄町2-7-22 ※地図 ※ストリートビュー

(江戸へ上る)

かくして星雲の志を抱いて江戸へ出たのは、安兵衛18歳の元禄元年(1688)の時であった。途中、旅費を稼ぐためしばらく、北国街道の出雲崎で手習いの師匠をしていたと伝わる。※地図 ※ストリートビュー
最初に門をたたいたのは当時評判の高かった馬庭念流道場だった。道場は高崎城下から山奥に入った馬庭村にあり、念流12世樋口定貫を訪ね入門を許された。安兵衛は江戸赤坂に道場を持つ若先生の13世将定に稽古をつけてもらった。将定は日々稽古で腕を上げる安兵衛の持つ天賦の才は認めたが、安兵衛の剣の流儀は馬庭流の範疇に入らない剣だった。
✦馬庭念流道場
〔所在地〕群馬県高崎市吉井町馬庭80※地図 ※ストリートビュー

✦旧下田邸の庭園
旧下田邸の書院と庭園は、箕輪城主長野氏の重臣であった下田大膳正勝の子孫の屋敷跡。庭園は、父弥次右衛門から受け継いだ素養を基に、安兵衛が造ったと言われる池泉回遊式庭園で、「青翆園」の名で親しまれている。
〔所在地〕群馬県高崎市箕郷町西明屋702番地4※地図 ※ストリートビュー
その後、樋口将定の勧めで、小石川牛天神下にあった堀内源左衛門の道場に入門する。
安兵衛は樋口将定の紹介状を持って堀内源左衛門の門弟、細井広沢を訪ねた。細井は柳沢吉保に200石で仕え、剣術を堀内源左衛門に学んでいた。広沢は快く承諾し、安兵衛を道場に連れて行った。
堀内道場は当時江戸随一の評判があり、道場主の堀内源左衛門は弟子300人を抱えていた。この道場には、浅野家の奥田孫太夫(重盛)がいた。安兵衛は奥田孫大夫に稽古をつけてもらうとじきに頭角を現し、直心影流の免許皆伝となる。奥田孫太夫、菱沼弐兵衛、塩入主善らとともに堀内道場の四天王と呼ばれた。
安兵衛は細井広沢に対し厚い信頼を生涯持ち続けることとなる。吉良邸討ち入りでも協力を受けている。
元禄3年(1690)、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。安兵衛は、武芸や学問に専心する明け暮れであったと推察され、学問の素養も深く、剣術も達人の域に達し、書道は能書家の評判が高かった。この頃の安兵衛は、生活の糧を得るため、いろいろな仕事をして「ケンカ安」などの異名で講談で語られている。
元禄4年(1691)には、一刀流で有名な玉木一刀斎道場に入門し師範となる。
堀内道場堀内源左衛門は、安兵衛の人柄や能力を評価し、何とか士官口を探してやりたいと、門弟の西条藩の家臣菅野六郎右衛門に相談する。菅野は関宿藩時代の同輩である下総関宿藩の江戸留守居役中根長太夫、高遠藩士三沢喜右衛門、谷村藩士間瀬市左衛門に相談を持ち掛けていた。こうした中、元禄7年(1694)2月11日、菅野六郎右衛門が村上兄弟から果し合いを挑まれ決闘をするが重傷を負い、安兵衛がかけつけて菅野に代わって村上兄弟と中津川祐見を切り一躍有名となった。(高田馬場の決闘)

(高田馬場の決闘)

元禄7年(1694)2月7日、伊予西条藩の藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたとき、2人は口論になった。このときは同僚の仲裁で一旦は収まったが、その後また口論となってしまう。ついに2人は高田馬場で決闘をすることと決める。
2月11日に、菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の契りを交わしていた中山安兵衛のもとへ行き、助太刀を頼み、万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出たという。安兵衛はこれに同意し、決闘場の高田馬場へ一緒に行くこととなった。
この決闘で中山安兵衛が斬った数は諸説あるが、少なくとも安兵衛が自認しているのは3人(村上庄左衛門、村上三郎右衛門、中津川祐見)という。しかし、この決闘がもとで菅野六郎左衛門は亡くなってしまう。



(堀部家との養子縁組)

亡くなった菅野六郎左衛門の遺志を受け継いだ中根長太夫は安兵衛を赤穂藩浅野家江戸留守居役堀部弥兵衛に紹介し取次の労をとる。安兵衛は弥兵衛との席で高田の馬場事件の顛末などを話したという。
安兵衛に見惚れた堀部弥兵衛(金丸)は娘ほりとの婚儀を申し入れた。安兵衛は中山家の再興を考えており、「亡き親には自分以外の男子はいないので、中山の家名の相続を子として果たさなければならない。自分一人の考えで中山姓を絶つようなことは不本意である」と当初断っていた。堀部弥兵衛も安兵衛の気性に惚れこみ「中山姓を名のってもよい」とまで言ったので、安兵衛は、弥兵衛の熱心さに感じ入って養子縁組を受け入れた。なおこの養子一件について安兵衛は、逐一を郷里新発田の親戚に報告をしている。

元禄7年(1694)閏5月26日、赤穂浅野家家臣・堀部弥兵衛からの婿養子の願い出が浅野家から認められる
7月7日、弥兵衛の娘・ほりと結婚して、婿養子となる。こうして堀部安兵衛は禄高200石の赤穂藩江戸詰藩士※地図 ※ストリートビューとなった。
✦弥兵衛は討ち入り時、四十七士の中で76歳と最高齢であった。
✦武庸が切腹し後家となったほりは、弥兵衛の後妻わか ( ・・ )とともにわかの実家に身を寄せたが、養子をとり堀部家を再興し、赤穂浪士に深く感銘していた肥後国熊本藩主細川綱利に召抱えられ、熊本に移りそこで死んだ。
武庸の性格はおせっかいと思われるほど義理堅く、浅野家仕官後、1699年(元禄12)、姉の子の弥五左衛門が家を継いだ時、家長としての心得を長々と手紙に書き連ねて送っている。武庸は筆まめで多くの手紙が残されている。

(赤穂事件)

元禄14年(1701)3月14日、主君浅野長矩が殿中で刃傷に及び赤穂藩は断絶、相手方の吉良にお咎めないことを知ると真っ先に吉良邸討入を進言。そのために浪士たちは身分や名前を変えたが、安兵衛は剣術指南役として長江長左衛門と改名して江戸八丁堀でその機会を伺っていた。武庸は江戸急進派のリーダー格となる。
11月10日、筆頭家老・大石良雄と武庸は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談。
元禄15年(1702)6月29日、武庸は事態によっては大石良雄を討とうと京都に入る。
7月18日、浅野長広(浅野大学)の浅野宗家への永預けが決まり浅野家再興が絶望的となる。大石は京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。
8月10日、武庸は江戸に戻る。
8月12日、同士を集め京での決定を伝える。
12月14日、赤穂浪士四十七士が、本所松阪の高家・吉良邸※地図 ※ストリートビューに討ちいった。安兵衛は大太刀を持って奮戦したが、「家臣には遺恨なし」として吉良方を峰打ちで倒し、一人も斬殺しなかったという。上野介の首級をあげ本懐を遂げると、安兵衛は他の10人とともに伊予松山藩松平定直の邸へお預けとなる。
元禄16年(1703)2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、武庸は伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷※地図 ※ストリートビューにて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹した。法名は刀雲輝剣信士。 享年34。
辞世の句は「梓弓 ためしにも引け武士もののふの 道は迷わぬ 跡を思はば」であった。

新発田市の中山家の菩提寺長徳寺には安兵衛の墓や手植えの松、愛用の印籠などが残っている。また新発田城本丸表門前には安兵衛の銅像が建っている。


☯2016(平成28)年5月、堀部安兵衛の物とみられる印籠が、かつて新発田藩で酒造業を営んでいた東京都練馬区の相馬家で発見される
☯2017年(平成29)11月26日、市民団体「武庸(たけつね)会」によって堀部安兵衛の新発田市長徳寺で墓碑の建碑式が行われた。赤穂浪士の墓所の泉岳寺(東京都港区)から持ち帰った墓の土が墓碑に「納骨」された。
☯2019年(令和元)7月27日、堀部安兵衛と縁の深い長井家(現新潟市南区庄瀬)の家宝が新潟市に寄贈される。安兵衛関連の史料も含まれる。

❏記念碑



❏墓所

  • 高輪泉岳寺


🔶堀部安兵衛に関連する施設

≪堀部安兵衛伝承館≫
郷土資料館の一角に、堀部安兵衛武庸に関する品々を展示する伝承館が開設され、堀部安兵衛を顕彰する「武庸会」や新発 田市、個人が所有する安兵衛直筆の書簡や愛用した刀など約30点の品々が展示されている。
この「郷土資料館」は、清水園の所有者である一千町歩の大地主伊藤家が3棟目の米蔵として明治43年に新発田郊外の五十公野から酒蔵を移築したものである。館内には、新発田藩関係の資料、越後阿賀北の考古、民俗などの郷土資料が展示されている。


≪堀部安兵衛生誕地まつり≫
  • 〔所在地〕新発田市 新発田城ほか市内各所
  • 〔時期〕5月1日~31日



≪義士祭≫

元禄15年12月14日は新発田出身の堀部安兵衛を含む赤穂義士四十七士が吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた日として知られる。
毎年この日に安兵衛を偲び、祖父の菩提寺である長徳寺で冬に開催される恒例行事。
長徳寺山門前にある義士堂の中に祭られている「赤穂義士四十七士の木像」が、この日限り一般開放される。その他、堀部安兵衛を偲んでの法要、剣道形の披露、赤穂義士に扮した少年少女剣士による市中パレード、新発田市御免町安兵衛太鼓部の演奏などが行われる。
  • 〔開催日〕 12月14日
    〔開催場所〕 新発田市大栄町2丁目7-22 長徳寺
  • 〔問い合わせ先〕☎0254-26-6789 武庸会事務局(一般社団法人 新発田市観光協会内)























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