堀部 武庸(ほりべ たけつね)(旧姓中山安兵衛応庸) 寛文10年(1670)5月〔生〕- 元禄16年2月4日(新暦1703年3月20日)〔没〕誕生と新発田での少年時代越後新発田に生まれた剣豪堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)は、寛文10年(1670)、越後国新発田藩士中山弥次右衛門の長男として、新発田城下外ヶ輪(現在の新潟県新発田市大手町五丁目付近)で生まれた。幼名を安兵衛といい、後に赤穂事件で四十七士随一の剣豪として名を残すことになる。講談や歌舞伎では出生地についてさまざまな伝承が語られてきたが、安兵衛自身が残した書状で「生国越後新発田」と明記しているため、その誕生地に異論はほとんどない。 父の中山弥次右衛門は新発田藩二百石取りの藩士だった。本来は三百石取りだったとも伝わるが、上役にも遠慮なく意見する実直な性格が災いし減封されたという話が残る。史実かどうかは定かではないものの、融通の利かない誠実な気質は後の安兵衛にも受け継がれたように思える。 母は新発田藩重臣溝口四郎兵衛盛政の娘で、溝口家は藩主家とも縁戚関係を持つ名門だった。しかし母は安兵衛を出産した後、産後の肥立ちが悪く若くして亡くなる。幼い安兵衛は母の愛情をほとんど知らずに育った。 家族は姉が三人いた。姉たちは後にそれぞれ嫁ぎ、安兵衛は中山家唯一の男子となった。そのため幼い頃から「家を継ぐ者」という自覚を持って育てられた。 新発田城下で育まれた人格安兵衛が育った新発田城下は、溝口氏六万石の城下町として栄えた町だった。新発田城を中心に武家屋敷が整然と並び、城外には町人町が広がる典型的な近世城下町だった。父弥次右衛門は文武両道を重んじ、剣術だけでなく学問や礼法も厳しく教えた。さらに弥次右衛門には造園の才能があったと伝わる。藩から庭の設計を任されるほど腕を認められていたという。現在も新発田に残る清水園のような庭園を安兵衛に見せながら、美しさや自然を見る目も養わせたという伝承がある。 後年の安兵衛は武勇だけでなく書道にも優れ、多くの達筆な書簡を残している。幼い頃から教養を重視する家庭教育を受けていたことが、その素養につながったと考えられる。 父の失火事件安兵衛十三歳の時、一家の運命を変える出来事が起こる。天和3年(1683)、父弥次右衛門は新発田城巽櫓の管理を任されていた。しかし櫓から火を出し焼失させてしまう。城の失火は重大な責任問題だった。弥次右衛門は藩を追放され浪人となる。原因について詳しい記録は少ないが、当時の武士社会では職務上の失敗は家そのものの存続に関わる重大事だった。中山家は一夜にして藩士の身分を失った。さらに追い打ちをかけるように、弥次右衛門は同年五月二十五日に亡くなる。失意の末に病死したとも、自ら切腹したとも伝わる。いずれにしても、安兵衛は十三歳で父母を失う孤児となった。この出来事は後年の彼の強烈な責任感や義理堅さを形作った大きな転機だった。 祖父溝口盛政のもとへ父の死後、安兵衛は母方の祖父である溝口四郎兵衛盛政に引き取られる。盛政は藩内でも重臣として知られた人物で、孫を手厚く養育した。武士としての礼法や学問を改めて学び、剣術の修業も続けた。しかし、その生活も長くは続かなかった。天和5年(1685)、祖父盛政が亡くなる。再び後ろ盾を失った安兵衛は、姉の嫁ぎ先である中蒲原郡牛崎村(現在の新潟市南区庄瀬付近)の豪農・長井弥五左衛門のもとへ身を寄せることになる。豪農の家で育った青年時代牛崎村での生活は城下町とは大きく異なっていた。農村では田畑の仕事を目にし、人々の暮らしに触れながら成長した。豪農長井家は裕福で教育にも理解があり、安兵衛は学問と剣術を続けることができた。近隣では腕の立つ若者として知られるようになり、後に講談で語られる豪胆な性格も、この頃にはすでに芽生えていたといわれる。しかし安兵衛には常に一つの思いがあった。「中山家を再興する。」父の無念を晴らし、武士として家名を取り戻すことだった。そのためには地方に留まっていては道は開けない。十八歳となった元禄元年(1688)、ついに人生最大の決断を下す。剣術修業のため江戸へ向かうのである。新発田を発つ前、安兵衛は中山家の菩提寺・長徳寺を訪れた。亡き父母の冥福を祈り、自ら愛用していた印籠と石台松を寺へ寄進したという。現在も長徳寺には「安兵衛の松」と伝わる老松が残り、その旅立ちを静かに見守り続けている。少年時代を過ごした越後を後にした十八歳の安兵衛は、この旅が後に日本史に残る運命へつながるとは、まだ知る由もなかった。 浪人となった一家と江戸への旅十八歳となった元禄元年(1688)、安兵衛はついに江戸行きを決意する。当時の江戸は人口百万人近い世界有数の大都市であり、諸国から武芸者や学者が集まる文化の中心地だった。地方では仕官の口も限られ、家名再興を目指す若い武士にとって、江戸へ出ることは運命を切り開くための唯一の道でもあった。旅立ちに際し、安兵衛は中山家の菩提寺・長徳寺を訪れる。亡き父母の供養を頼み、愛用していた印籠と石台松を寺へ寄進したと伝えられる。境内には現在も「安兵衛の松」と呼ばれる老松が残り、旅立ちの記念として語り継がれている。 越後を離れた安兵衛は、北国街道をたどって江戸を目指した。当時の旅は徒歩が基本で、一日に三十~四十キロほど進みながら宿場町を渡り歩く長旅だった。越後から江戸までは数百キロに及び、関川や信濃川を渡り、険しい峠を越えなければならない。 旅の途中、出雲崎でしばらく手習いの師匠を務めたという伝承がある。出雲崎は日本海交易で栄えた港町で、多くの商人や旅人が行き交っていた。安兵衛は読み書きを教えることで旅費を稼ぎ、その間も剣術の鍛錬を欠かさなかったと伝えられる。この逸話は確実な史料ではないものの、彼が学問にも優れ、生活力を備えた青年だったことを象徴する話として広く語り継がれている。 ようやく江戸へたどり着いた安兵衛を待っていたのは、華やかな大都市の姿だった。武家屋敷が立ち並び、大名行列が往来し、各流派の道場が腕自慢の若者を競い合っていた。安兵衛はここで、自らの運命を変える師と仲間たちに出会うことになる。 越後から持ち続けた「家名を再興する」という志は、この江戸で剣豪・中山安兵衛として大きく花開き、やがて高田馬場の決闘、そして赤穂浪士四十七士の一員として歴史に名を刻む道へとつながっていく。 馬庭念流で磨かれた才能江戸へ着いた安兵衛が最初に門をたたいたのは、上州馬庭村(現在の群馬県高崎市)に本拠を置く馬庭念流だった。念流は戦国時代から続く実戦的な古流剣術で、多くの武士から高い評価を受けていた。安兵衛は十二世・樋口定貫に入門を許され、江戸赤坂で道場を開いていた十三世・樋口将定のもとで修業を積んだ。将定は日々めざましい上達を見せる安兵衛の才能を高く評価した。しかし、その剣は型に収まりきらない独特の鋭さを持っていたという。将定は「この男の剣は馬庭流だけに留めておくには惜しい」と考え、さらに広い世界へ送り出す決断をする。その勧めによって、安兵衛は小石川牛天神下にあった堀内源左衛門の道場へ向かうことになる。 江戸随一の堀内道場堀内源左衛門の道場は、当時「江戸随一」と評される名門だった。門弟は三百人を超え、諸藩の武士たちが競って学びに訪れていた。安兵衛は樋口将定の紹介状を携え、堀内門下の細井広沢を訪ねる。細井は柳沢吉保に仕える武士でありながら剣術にも秀でた人物で、安兵衛の人柄に好感を抱き、自ら道場へ案内した。この出会いは生涯続く友情となる。後年、赤穂事件の際にも細井広沢は安兵衛を陰ながら支援し、両者の信頼関係は変わることがなかった。堀内道場には赤穂藩士・奥田孫太夫重盛も在籍していた。奥田は安兵衛の稽古相手となり、その才能を誰よりも早く見抜いた人物でもある。安兵衛は厳しい鍛錬を重ね、直心影流の免許皆伝を授かるまでになる。やがて奥田孫太夫、菱沼弐兵衛、塩入主善とともに「堀内四天王」と呼ばれるほどの実力者となり、江戸の剣術界で名を知られる存在となった。 文武両道の若き浪人剣術だけが安兵衛の才能ではなかった。元禄3年(1690)、二十歳になる頃には牛込天龍寺竹町(現在の東京都新宿区納戸町付近)に一戸建ての住まいを構え、自立した生活を送っていた。生活は決して裕福ではない。講談では「ケンカ安」の異名で、町の喧嘩を次々と収めたり、大男を打ち負かしたりする豪快な逸話が数多く語られる。誇張も少なくないが、当時の江戸で腕の立つ浪人として知られていたことは確かである。一方で実際の安兵衛は読書を好み、漢学や書道にも秀でていた。現存する手紙はいずれも達筆で文章力にも優れ、後年には姉の子へ家長としての心得を長文で諭す手紙を書くほどだった。武勇と教養を兼ね備えた青年だったからこそ、多くの人に信頼されたのである。 一刀流でも師範となる元禄4年(1691)、安兵衛はさらに剣の幅を広げようと、一刀流で名高い玉木一刀斎の道場にも入門する。一刀流は徳川将軍家にも影響を与えた流派であり、勝負を一太刀で決する合理的な剣法を特徴としていた。安兵衛はここでも頭角を現し、師範を務めるほどの腕前となる。複数の流派を極めたことで、実戦に応じて自在に戦える剣豪へと成長していった。この頃には江戸でも「仕官させたい」と考える者が現れ始める。堀内源左衛門もその一人だった。門弟である西条藩士・菅野六郎右衛門に相談し、関宿藩、高遠藩、谷村藩など各藩へ安兵衛を推薦する話が進められていた。その矢先、一つの事件が安兵衛の運命を大きく変える。高田馬場の決闘元禄7年(1694)2月7日。西条藩士・菅野六郎右衛門と同藩士・村上庄左衛門が勤務中に口論となった。一度は仲裁されたものの対立は収まらず、二人は武士として高田馬場で果し合いを行う約束をする。決闘前日の2月10日、菅野は叔父甥の契りを結んでいた安兵衛を訪ねた。「もし自分が討たれたなら妻子を頼む。そして村上を討ってほしい。」そう頼まれた安兵衛は即座に引き受けた。当日、二人は決闘場へ向かう。しかし途中で安兵衛は遅れてしまう。講談では蕎麦を食べていたため遅れたと語られるが、これは創作色が強い。実際には別の用事や道中の事情で遅れたと考えられている。高田馬場へ駆けつけた時には、菅野はすでに深手を負っていた。安兵衛は一気に戦場へ飛び込む。村上庄左衛門。村上三郎右衛門。そして加勢した中津川祐見。史料上、安兵衛自身が認めているのはこの三人を討ったことである。 わずかな時間で形勢を逆転させたその剣技は、江戸中に衝撃を与えた。後世には十数人を斬ったという講談も生まれるが、それは人気ゆえの脚色であり、確実なのは三人を倒したという記録である。しかし勝利の代償は大きかった。菅野六郎右衛門は傷がもとで命を落としてしまう。 堀部家への養子入りと赤穂藩士時代元禄7年(1694)2月11日の高田馬場の決闘によって、中山安兵衛の名は一夜にして江戸中へ知れ渡った。叔父の契りを結んでいた菅野六郎右衛門の助太刀として駆けつけ、村上庄左衛門・村上三郎右衛門・中津川祐見の三人を討ち果たした働きは、「義を重んじる剣豪」の象徴として評判になった。講談では「十八人斬り」と語られることもあるが、安兵衛自身が認めているのは三人を討ったという事実である。この武勇を聞きつけたのが、播磨赤穂藩江戸留守居役・堀部弥兵衛金丸だった。弥兵衛は長年仕えてきた忠勤の士であり、すでに高齢だった。実子の男子に恵まれず家督相続に悩んでいたため、武勇だけでなく人柄にも優れた安兵衛を婿養子に迎えたいと考えるようになる。二人を引き合わせたのは、中根長太夫だった。中根は菅野六郎右衛門とも親交があり、高田馬場一件の後、安兵衛の人物を高く評価して弥兵衛へ紹介した。元禄7年4月27日、安兵衛は初めて弥兵衛と対面し、高田馬場での経緯やこれまでの生い立ちを語ったという。弥兵衛はその誠実な受け答えに感銘を受け、「ぜひ堀部家を継いでほしい」と熱心に申し入れた。 しかし安兵衛は、すぐには承諾しなかった。「中山家には自分以外に男子がおらず、父祖の家名を絶やすわけにはいかない。」これが安兵衛の答えだった。新発田で浪人となって没した父・弥次右衛門への思いは強く、中山家再興こそ自らの使命と考えていたのである。弥兵衛はなおも諦めなかった。「中山姓のままで養子になっても構わない。」そうまで譲歩し、さらに主君・浅野内匠頭長矩にも願い出た。異例にも浅野家はこの願いを認め、元禄7年閏5月26日、養子縁組が正式に許可された。 そして7月7日、安兵衛は弥兵衛の娘・ほりと婚礼を挙げ、堀部家の婿養子となった。講談では、高田馬場へ向かう途中で弥兵衛の妻と娘に出会い、娘が腰ひもをたすき代わりに渡したことが縁で結婚したという有名な逸話がある。しかし、史料から娘ほりは当時まだ幼く、この話は後世に創作された美談と考えられている。実際の縁組は、中根長太夫の仲介と弥兵衛の強い意志によって進められたものだった。 こうして安兵衛は赤穂藩二百石取りの江戸詰藩士となり、武士として再び仕官の道を歩み始める。元禄10年(1697)には弥兵衛が隠居し、安兵衛が正式に家督を相続した。この時、自らの意思で中山姓を改め、「堀部武庸」と名乗るようになる。約束では中山姓のままでもよかったが、養父への恩義を重んじ、堀部家を背負う決意を示したものと考えられている。 赤穂藩での安兵衛は、新参者でありながら剣術指南役として重きを置かれた。江戸では依然として武芸の鍛錬を続け、諸家への出稽古も行っていたという。書道にも優れ、家族や郷里新発田の親戚へ送った手紙には、家長としての心得や人として守るべき義理が細やかに書き記されている。その筆致は達者で、礼節を重んじる人格がにじみ出ている。 養父弥兵衛との関係も極めて深かった。年齢は半世紀近く離れていたが、二人は単なる義父子ではなく、互いを信頼し合う同志だった。後年、弥兵衛は「安兵衛は才覚だけでなく、物腰や志まで自分によく似ている」と語ったと伝えられる。義理を重んじる性格、一本気な気質、そして主君への忠誠心は、この義父子の間で自然に通じ合っていたのである。 この穏やかな日々は七年ほど続いた。しかし元禄14年(1701)3月14日、江戸城松之大廊下で主君・浅野長矩が吉良上野介義央へ刃傷に及ぶという前代未聞の事件が起こる。浅野家は即日改易となり、安兵衛は再び浪人となる。だが今度は父の無念を晴らすためではなく、主君の無念を晴らすための道を歩むことになる。急進派の中心人物として吉良邸討入りを主張する安兵衛の真価は、ここから試されることになるのである。 赤穂事件と吉良邸討入り元禄14年(1701)3月14日、江戸城松之大廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家・吉良上野介義央へ刃傷に及ぶという前代未聞の事件が起こった。江戸城内での抜刀は天下の禁忌であり、浅野長矩はその日のうちに切腹を命じられ、赤穂藩五万三千石は即日改易となる。一方、傷を負った吉良には処分が科されなかった。この裁定は浅野家家臣たちに大きな衝撃を与え、主君への忠義と幕府法の狭間で苦悩することになる。江戸にいた堀部安兵衛武庸は、この報を聞くと激しく憤った。主君だけが即日切腹となり、相手には咎めがないという処置を不当と感じ、「直ちに吉良邸へ討ち入るべきだ」と最も強硬に主張した一人だった。江戸詰め藩士だった安兵衛は、同じく江戸にいた赤穂藩士・間瀬久太夫、片岡源五右衛門らと連携し、仇討ちを望む急進派の中心人物となっていく。 しかし、赤穂城では筆頭家老・大石内蔵助良雄が幕府への嘆願による浅野家再興の可能性を探っていた。江戸の急進派と赤穂の慎重派の間には温度差があり、家臣団はすぐにはまとまらなかった。安兵衛は江戸で剣術指南役として身を隠すため、「長江長左衛門」と名を改め、八丁堀周辺で機会を待ちながら同志との連絡を取り続けた。表向きは町人として暮らしながらも、いつでも戦えるよう武具の調達や同志の結束に力を尽くしていた。 元禄14年11月10日、大石内蔵助が江戸へ下ると、三田の前川忠大夫宅で重要な会談が開かれた。安兵衛は大石に対し、「もはや機を失してはならない」と強く訴えたと伝えられる。この頃の安兵衛は、討入りを急ぐ江戸急進派の精神的支柱となっていた。 翌元禄15年(1702)になると情勢はさらに動く。6月29日、安兵衛は京都へ赴き、なおも再興策を探る大石の真意を確かめるため、必要であれば大石を討つ覚悟まで抱いていたという逸話が残る。ただし、この話は後世の講談で強調された面もあり、実際には同志の結束を確認するための上洛だったと考えられている。 7月18日、浅野長広(浅野大学)の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興の望みは完全に絶たれた。これを受け、大石は京都・円山で同志を集め、吉良邸討入りを正式に決断する。安兵衛もこの決定を受け入れ、8月には江戸へ戻って同志たちへ京都での決議を伝えた。 討入りの日が近づくと、四十七士は武具の準備や吉良邸の偵察を進めた。安兵衛は剣術の達人として戦闘の中核を担うことが期待され、大太刀を手にして先陣の一角を任されることになる。養父・堀部弥兵衛は七十六歳という四十七士最高齢だったが、「親子ともに主君のために命を捨てる」と覚悟を固め、義父子は共に出陣することになった。 雪の吉良邸討入り元禄15年12月14日深夜(1703年1月30日未明)、江戸には雪が降り積もっていた。四十七士は二手に分かれ、本所松坂町(現在の東京都墨田区両国三丁目付近)の吉良邸を包囲する。表門隊を大石内蔵助、裏門隊を大石主税が率い、安兵衛は表門側の主力として突入した。山鹿流兵法に基づいて合図の太鼓が鳴らされると、一斉に門を破って屋敷へ雪崩れ込んだ。安兵衛は大太刀を振るって奮戦した。講談では敵を次々となぎ倒す豪快な場面が描かれるが、史料ではむやみに斬殺せず、「家臣には遺恨なし」として峰打ちで制した場面があったと伝えられている。吉良家の家臣たちは必死に抵抗したものの、安兵衛らは屋敷内を一室ずつ捜索し、やがて炭小屋に隠れていた吉良上野介義央を発見する。 吉良の顔に浅野長矩が負わせた傷跡が残っていることを確認すると、大石内蔵助は主君の遺恨を告げ、自害を勧めた。しかし吉良は応じず、最終的に首級が挙げられた。安兵衛も首実検に立ち会い、本懐を遂げた同志たちとともに泉岳寺へ向かい、浅野長矩の墓前へ首級を供えたのである。 討入り後の覚悟討入りを終えた四十七士は逃亡せず、自ら幕府へ裁きを委ねた。安兵衛は養父弥兵衛とは別れ、他の十名とともに伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられる。屋敷では落ち着いた様子で日々を過ごし、和歌を詠み、書を書き、死を恐れる様子は見せなかったという。元禄16年(1703)2月4日、幕府は吉良邸討入りに参加した四十七士全員へ切腹を命じた。堀部安兵衛武庸は、討入り後に預けられていた伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷で最期の時を迎える。屋敷は現在の東京都港区元麻布、現在のイタリア大使館付近にあたり、この地が安兵衛の人生最後の場所となった。 切腹当日、安兵衛は三十四年の生涯を静かに振り返るように落ち着いた様子だったという。武士としての覚悟は少しも揺らがず、介錯は松平家家臣・荒川十大夫が務めた。法名は「刀雲輝剣信士」。辞世には、
越後新発田で父母を失った一人の少年は、剣一本で江戸に名を上げ、義父とともに主君への忠義を貫いて散った。その生涯は、史実と講談の双方によって語り継がれ、日本人が最もよく知る剣豪の一人となったのである。 泉岳寺に葬られた四十七士の墓には今も多くの参拝者が訪れるが、故郷・新発田にも分骨墓が建てられ、郷土の英雄として今日まで大切に守られている。 最期・人物像・新発田に残る遺跡義理を貫いた人物像安兵衛を語る上で欠かせないのは、その剣の強さだけではない。幼くして母を亡くし、十三歳で父を失い、浪人の子として苦難の少年時代を過ごした。それでも家名再興の志を捨てず、江戸で剣術を極め、高田馬場では命を懸けて義兄弟を救った。堀部家への養子縁組でも、中山家を絶やせないと一度断っている。養父・堀部弥兵衛への恩義を重んじ、自ら堀部姓を名乗るようになった後も、新発田の親族とは書簡を交わし続けた。姉の子へ送った長文の手紙では、家長としての心得や人として守るべき道理を細やかに説いており、武勇だけでなく教養と誠実さを兼ね備えた人物だったことがうかがえる。 講談では「ケンカ安」の異名で豪快な剣豪として描かれる一方、実際の史料から浮かび上がる安兵衛は、情に厚く、人との約束を何より重んじる武士だった。吉良邸討入りでも無益な殺傷を避けようとしたと伝えられる姿勢は、その人格を象徴する逸話の一つとなっている。 故郷・新発田に残る安兵衛の足跡安兵衛の生涯を最も身近に感じられる場所が、新発田市大栄町にある長徳寺である。ここは中山家の菩提寺として知られ、境内には安兵衛の分骨墓、中山家墓所、そして江戸へ旅立つ際に植えたと伝わる「安兵衛の松」の二代目が今も育っている。境内の義士堂には赤穂四十七士の木像四十七体が安置されている。この木像は明治時代に浪曲師・桃中軒雲右衛門の寄進をきっかけとして新発田へ迎えられ、昭和4年に義士堂が建立された。天井には会津八一や相馬御風ら著名人の書画が納められ、市指定文化財となっている。毎年12月14日には義士祭が開かれ、少年少女剣士による討入り再現などを通して安兵衛の精神が語り継がれている。 現在の新発田市では、デジタルアーカイブや文化財指定によって安兵衛ゆかりの資料が保存され、生誕の地として顕彰が続けられている。 義を貫いた剣豪として越後新発田の城下町で生まれた一人の少年は、父の失脚によって浪人の子となりながらも剣一筋に道を切り開き、高田馬場で名を上げ、赤穂藩士として主君への忠義を貫いた。その生涯はわずか三十四年だったが、武勇だけではなく、恩義を忘れず約束を守り続けた人柄によって、堀部安兵衛武庸は四十七士随一の剣豪として三百年以上を経た今なお、多くの人々に語り継がれる存在となっている。☯2016(平成28)年5月、堀部安兵衛の物とみられる印籠が、かつて新発田藩で酒造業を営んでいた東京都練馬区の相馬家で発見される ☯2017年(平成29)11月26日、市民団体「武庸(たけつね)会」によって堀部安兵衛の新発田市長徳寺で墓碑の建碑式が行われた。赤穂浪士の墓所の泉岳寺(東京都港区)から持ち帰った墓の土が墓碑に「納骨」された。 ☯2019年(令和元)7月27日、堀部安兵衛と縁の深い長井家(現新潟市南区庄瀬)の家宝が新潟市に寄贈される。安兵衛関連の史料も含まれる。 没後 年が経過しました。 ❏墓所
❏記念碑🔶堀部安兵衛に関連する施設≪堀部安兵衛伝承館≫郷土資料館の一角に、堀部安兵衛武庸に関する品々を展示する伝承館が開設され、堀部安兵衛を顕彰する「武庸会」や新発 田市、個人が所有する安兵衛直筆の書簡や愛用した刀など約30点の品々が展示されている。 この「郷土資料館」は、清水園の所有者である一千町歩の大地主伊藤家が3棟目の米蔵として明治43年に新発田郊外の五十公野から酒蔵を移築したものである。館内には、新発田藩関係の資料、越後阿賀北の考古、民俗などの郷土資料が展示されている。
≪堀部安兵衛生誕地まつり≫
≪義士祭≫ 元禄15年12月14日は新発田出身の堀部安兵衛を含む赤穂義士四十七士が吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた日として知られる。 毎年この日に安兵衛を偲び、祖父の菩提寺である長徳寺で冬に開催される恒例行事。 長徳寺山門前にある義士堂の中に祭られている「赤穂義士四十七士の木像」が、この日限り一般開放される。その他、堀部安兵衛を偲んでの法要、剣道形の披露、赤穂義士に扮した少年少女剣士による市中パレード、新発田市御免町安兵衛太鼓部の演奏などが行われる。 |
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