蕗谷 虹児(ふきや こうじ、1898年(明治31)12月2日生-1979年(昭和54)5月6日没) 1898年(明治31)新潟県新発田町(現新発田市)に生まれる。本名は一男。母親は新発田町の湯屋の看板娘で京風の美人と伝えられる。父は新潟県新発田市内の活版印刷屋の息子。若い2人は駆け落ちして母が16歳のとき蕗谷虹児を産む。 貧困の末、蕗谷虹児が13歳の時に母は29歳の若さで死去。母への追慕の情が、後の作風に影響を与えたと言われる。虹児の描く美人画が、越後美人のように深雪のしたでじっと春を待つ燃える叙情を秘めているのは、若くして死んだ美しい母への終生変わらぬ虹児の慕情があったようだ。 母親の死により家族は離散。新潟市の印刷会社に丁稚奉公、絵の勉強をしながら夜学に通う。またこの時期、新潟市西堀のイタリア小路近くに住んでいたが、近くに花街があり、通う芸妓の美しい姿を見て、母を偲んでいたとも。 1912年(大正元)、彼の絵の才能を認めた新潟市長の紹介により、新潟市出身の日本画家尾竹竹坡(おだけ ちくは)の内弟子として上京。(この尾竹竹坡の姪が『青鞜』の尾竹虹吉である。)約5年の間、日本画を学ぶが、約5年の内弟子生活の後、1917年(大正6)、年上の人妻との恋が発覚して日本を脱出。逃げるように樺太へ渡り、旅絵師として放浪生活を送る。 1919年(大正8)、竹坡門下の兄弟子戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、デザイナーとして修行する。 1920年(大正9)、竹久夢二を訪ね、主筆の水谷まさるを紹介される。これにより雑誌『少女画報』で初めて「蕗谷虹児」の筆名により挿絵デビューを果たす。翌年朝日新聞連載の新潟市出身吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判となり、時代の寵児となって、竹久夢二と並び叙情画家ととして高い人気を得た。 1923年(大正12)、14歳のりんと結婚する。 1924年(大正13)2月、『令女界』に発表した童謡詩『花嫁人形』は、後に杉山長谷夫による作曲で、蕗谷虹児の代表作となった。他に9冊の詩画集を出版している。 1925年(大正14)挿絵画家としての生活に飽き足らず、妻りんを同行してパリへ留学。苦学の末、サロン・ナショナル、サロン・ドートンヌ等への連続入選を果たし、また藤田嗣治や東郷青児等と親交を深める。ようやく画家としての地歩を固めつつあった。 1926年(大正15)、東京に残した長男が死亡する。 1929年(昭和4)、東京の弟から困窮を知らせる手紙が届き、妻りんと子供をパリに残して急遽帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。 1933年(昭和8)8月、帰国したりんと離婚。12月に松本龍子と結婚。 1935年(昭和10)、詩画集『花嫁人形』出版。しかし、やがて戦時色が強くなると蕗谷虹児の絵は時勢に合わず、制作を休止。 幼い長男の死、離婚と再婚、戦中戦後は里山で自給自足。戦争画も描いた。戦後は画家に専念しようとするが、熱心に請われて復興された各誌にまた挿絵を描き始める。 1949年(昭和24)、『令女界』9月号に掲載された沖縄戦に散った少女たちへの鎮魂の絵「ひめゆりの塔に祈る」少女には、往年の虹児ファンは涙をながした。 1953年(昭和28)の小学館の絵本の挿絵制作 1954年(昭和29)には東映動画スタジオの設立に参加し、アニメーション映画『夢見童子』の原画・構成を担当した。 1956年(昭和31)の講談社の絵本の挿絵制作し、これまで20冊を越える絵本の挿絵で子供に親しまれた。 1966年(昭和41)11月 、新潟市のイタリヤ軒わきに「金襴緞子の帯しめながら、花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という『花嫁人形』の歌碑が建つ。 1979年(昭和54)中伊豆温泉病院で急性心不全により80歳で死去。 ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥ ✥
(没後) ☯1987年(昭和62)、 新潟県新発田市には「蕗谷虹児記念館」が建つ。 ☯2023年3月17日、新潟県出身である東映初代社長の大川博、東映動画の設立に携わった蕗谷虹児の名前を冠した「第1回新潟国際アニメーション映画祭」の大川=蕗谷賞の授賞式が行われる。 |