川田芳子 Yoshiko Kawada 新潟市



明治27年(1895)10月17日〔生〕-昭和45年(1970)3月23日〔没〕

明治27年(1895)新潟市の花街、古町九番町で踊りの師匠市山流宗家(※地図 ※ストリートビュー)の娘として生まれる。大畑小学校を卒業、11歳のとき一家で上京し、「藤間勘翁」に師事する。五代目市山七十郎は姉、六代目市山七十郎は姪である。一時、新橋の花柳界で、19歳まで芸者に出た。その後、川上貞奴の門に入り、「川上芳子」の芸名で「帝国劇場」で『八犬伝墨田の高楼』に出演し初舞台を踏む。東京、名古屋、大阪などで新派劇の舞台に立った。

大谷竹次郎の松竹合名会社が映画事業に進出を決め、大正9(1920)松竹キネマ合名社(松竹蒲田撮影所)を設立する。その年の6月、川田はその美貌をかわれて、松竹と専属俳優契約を結んだ。大谷竹次郎が人生をかけ陣頭指揮して最初に手掛けた映画『島の女』の主役に起用したのが芳子だった。川田24歳の時であった。『島の女』に主演し、銀幕デビュー。ストーリーは、たらいを漕いで島から通い、しのびあう男女の恋物語だ。房総・冨浦海岸がロケ地で、3日間で撮り終えた。舶来カメラ、銀紙の板をリヤカーにのせて一行は乗り込んだ。二台の人力車には、前に大谷、うしろに芳子が乗っていた。芳子は花模様の着物にサングラスをかけていた。『島の女』はその年11月、歌舞伎座で山田耕作指揮の交響楽団の演奏つきで公開された。芳子は日本髪がよく似合う色白の越後美人女優として人気を博する。

翌年大正10年(1921)の『己が罪』『生さぬ仲』で松竹蒲田の大スターとして人気を集めた。当時の人気俳優諸口十九との共演作を次々と発表し、この二人の人気は、栗島すみ子・岩田祐吉のコンビと並んで松竹蒲田のドル箱コンビだった。モダンな華々しさが魅力の栗島すみ子とは対照的に、純日本的なしとやかさを魅力に、日本的でおとなしいものの芯はしっかりした女性像を演じて、人気を保ち続けた。特に、当時のベストセラーの鶴見祐輔の原作を映画化した昭和4年(1929)の野村芳亭監督の『母』では、万人の涙を誘った。

昭和に入ると脚本・監督が若返り、出番が減り、田中絹代らに次第にその座を奪われていった。
そして、昭和10年(1935)、40歳で、送別映画『母の愛』を最後に映画界を引退するが、総数約300本の映画に出演した。

戦後再び登場し、昭和24年(1949)に『鐘の鳴る丘』に出たのが最後の映画出演となった。戦災にあい、戦後は転々と間借り暮らし。松竹本社から月2万円の「手当」をもらって、つましい生活をしていた。
昭和45年(1970)3月24日、埼玉県草加市の六畳一間のアパート(※地図 ※ストリートビュー)で、急性心不全でひっそりと死亡していた。アパートの大家によって遺体が発見されたのは死後2日目だった。左手に一粒、右手に三粒の浅田飴を握ったまま、枕元に缶が転がっていたという。急性心不全、死後数日たっていた。女優時代の恋は実らず、独身で通した生涯で、養女を迎えていたが先立たれていた。74歳の生涯であった。遺骨は故郷に帰り、新潟市西堀通りの浄土真宗・超願寺の墓に眠っている。


  • 代表作

    島の女(1920年)
    断崖(1921年)
    生さぬ仲(1921年)
    金色夜叉(1922年)
    海の極みまで(1922年)
    白鳥の死(1922年)
    女と海賊(1923年)
    寛一と満枝(1923年)
    女殺油地獄(1924年)
    女難(1925年)
    小幡小平次(1925年)
    修羅八荒(1926年)
    花井お梅(1926年)
    魔道(1927年)
    不滅の愛(1928年)
    多情仏心(1929年)
    母(1929年)
    母の愛(1935年)
    鐘の鳴る丘(1949年)
    悲恋模様(1949年)

🔶墓所
超願寺,真宗大谷派
〔所在地〕新潟市中央区西堀通2-783.


超願寺










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