1883年(明治15)6月4日 〔生〕- 1982年(昭和57)12月8日〔没〕 新潟県南蒲原郡四ッ沢村大字庭月(現三条市下田)でまれた。 諸橋安平の二男。 諸橋家は与板城主・直江兼続の子孫で、大面組で大庄屋を務めた名家だ。 号ははじめ尚由子、のち止軒。 荒沢小学校の校長をしていた父安平に従い、5歳のときから漢文を叩きこまれた。 14歳で隣村にあった奥畑義平の私塾静修義塾に入り、成績抜群で3年目に師範代となって塾生を教えた。17歳で塾を去り、南蒲原郡小古瀬小学校の代用教員となった。 その後、新潟師範学校を経て明治41年(1908)、東京高等師範学校の国語漢文科を卒業するが、そのまま研究科に入学した。 明治43年(1910)、研究科を卒業すると同時に東京高等師範学校助教諭となり、11月、新潟県山本庄左衛門の長女キン子と結婚する。轍次28歳。 大正7年(1918)、中国へ留学した。大正10年(1921)二度目の中国留学から帰国すると岩崎小弥太の招請によって静嘉堂文庫長に就任すると、内外の学者や研究者が多く訪れて諸橋の指導を仰いだ。 昭和4年(1929)に文学博士の学位をえた。青山学院大学など五つの大学の教授、東京帝国大学など四つの大学の講師として教鞭をとった。 「大漢和辞典」の制作「大漢和辞典」全13巻は大正10年(1921)ごろから着手して昭和35年(1960)の完成まで40年の歳月を費やしている。古典籍の殆どの文字・語彙を網羅した15,000ページ、526,000余語を収めた大著で漢文の本家中国の康熙字典もしのぐという大辞典である。この制作には、出版元の大修館が社運をかけ協力し、後に写植を担当する石井茂吉は、新しい5万字の原字(石井文字)を作り上げるのに、8年間の歳月を費やしている。多くの人が、長い年月と、人生を犠牲にしてかかわり続けているのである。 同僚や教え子の協力で資料収集や整理、校正原稿の手直しをして第一巻が刊行されたのは昭和18年(1943)であった。 ところが、昭和20年(1945)2月25日。B29が東京を空襲、『大漢和辞典』の出版元、大修館の社屋と工場は全焼した。『大漢和』の組み置き鉛活字15,000ページ分の全組版と資料一切を焼失、20年にわたる努力は水の泡と帰した。 不運は重なるもので、気力を失った諸橋は、昭和21年(1946)右眼を白内障で失明、左目の視力も落ち、全巻出版は夢かと思われた。食糧難、過労、栄養失調で仲間の協力者4人が相ついで死んだ。 大修館の3人の子供たちは、大学進学をあきらめて、父親を助け、辞典出版に専念した。 昭和26年(1951)、轍次を長きにわたって支え続けてきた妻キン子を亡くしている。轍次は妻の献身に泣いたという。 このような苦難を乗り越えて、昭和35年(1960)5月、ついに全13巻、文字数5万、語彙52万語の『大漢和辞典』が完結、東京会館で完刊記念会が催されたのである。 昭和40年(1965)、文化勲章を受賞。ほかに朝日文化賞、紫綬褒章、中華民国政府の学術奨励章、など数々の栄誉に輝いている。 諸橋は東宮職もやり、平成天皇に漢学を教えた。「浩宮」「礼宮」「紀宮」の名付け親と言われている。 昭和57年(1982)12月8日、99歳で亡くなるまでに遺した数々の著書や書跡、日記等からは博士の慈愛に満ちた人柄が偲ばれる。漢籍類二千数百点などを旧下田村に寄贈している。文学を愛し、郷里をこよなく愛した博士は、今なお市民に深く敬慕されている。 その博士の生家を含む小高い丘に記念館や広い庭園などが建設され、その一帯を「漢学の里」と呼んでいる。 🔶記念碑
🔶生家 ※GOOGLE 画像
🔶墓所
諸橋轍次記念館
※GOOGLE 画像
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