建川美次 ( たてかわ よしつぐ ) Yoshitsugu Tatekawa 新潟市



1880(明治13)年10月3日〔生〕~1945(昭和20)年9月9日〔没〕

旧奉天市

建川美次は1880年(明治13)新潟市の野崎義孝の三男として生まれた後に建川周平の養子となった。
1901年(明治34)陸士卒業後、騎兵第9連隊付となり日露戦争に出征。 昭和初期『少年倶楽部』に連載された、山中峯太郎の「敵中横断三百里」のモデルになる。
(戦後1957年(昭和32)、黒澤明が映画化を計画し『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』として映画化されたが、黒澤は脚本を手掛けている)
1905年(明治38)1月、満州軍総司令官大山巌元帥から騎兵第九連隊長を通じて建川美次中尉に敵軍の後方に深く侵入して敵の作戦意図を探るよう命令が下った。建川は下士官以下5名の部下を選び、1月9日から23日間に、幾度も死線を超えて何重もの敵陣を突破し、心臓部鉄嶺を迂回する1200キロの挺進斥候に成功した。
その結果「ロシア軍は奉天で日本軍に対して不退転の決戦を挑む作戦だ」という結論に達し総司令部に報告した。この情報に基づいて日本軍が先制攻撃をかけて奉天大会戦は空前の大勝利を収めた。

陸大卒業後、イギリスに駐在し、のちインド駐剳武官。
1931年(昭和6)陸軍屈指の実力者である宇垣一成を首班とした政権を目指すクーデター計画である三月事件に陸軍参謀本部第2部長として加担し、また満蒙で武力行使をおこなう旨の「満洲問題解決方針の大綱」を会議委員長として決定する。8月、三月事件の責任を問われることなく、参謀本部第一部長に転じる。9月18日に起る柳条湖事件を契機とする満州事変の挑発にも一役買った。12月、ジュネーブ軍縮会議に派遣される。
1932年(昭和7)3月1日に、関東軍が工作した満州国建国宣言されるが、建川美次は関東軍参謀本部第1部長として立案に加わっている。

のち1934年(昭和9)第10師団長、1935年(昭和10)第4師団長を歴任。
1936年(昭和11)2月、二・二六事件が勃発し、粛軍人事の一環として予備役となった。
1940年(昭和15)10月に東郷茂徳の後任として駐ソビエト連邦大使となる。大使として、日本政府に対してユダヤ難民に便宜をはかる様要請するが却下される。しかし、国の方針に反して「命のビザ」を発給したとされている。
1941年(昭和16)4月の日ソ中立条約に松岡と共に調印。
1942年(昭和17)3月に大使の任を解かれ帰国。その後は大政翼賛会総務、大日本翼賛壮年団長を務める
1945年(昭和20)9月9日に死去


🔶記念碑
🔶墓所
  • 東京都府中市・多磨霊園







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