明治40年(1908)1月11日〔生〕 - 昭和53年(1978)9月30日〔没〕 山岡荘八(本名 藤野庄蔵 ※再婚で養子となったため藤野姓となる) は、北魚沼郡小出町大字佐梨(現魚沼市佐梨)の農家山内家に生まれる。家が貧乏で、生計を助けるために小学3年から新聞配達をしていた。 大正9年(1920)高等小学校を中退して14歳で上京して、博文館印刷所で文選工として働きつつ逓信官吏練習所に学ぶ。 父の死で一時帰郷したが、再び上京して神田で印刷製本会社を興した。昭和7年(1932)、24歳の時大恐慌のあおりを受け倒産。悲観して自殺を図っている。 その後、事業を起こすことをあきらめ、長谷川伸に師事し作家修行に入った。 昭和8年(1933)2月、月刊誌『大衆倶楽部』の編集責任者だった藤野秀子と結婚。同誌を編集しながら雑誌に小説を発表。 昭和9年(1934)「佐渡の紅葉山人」を『大衆倶楽部』8月号に発表。 昭和13年(1938)に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。 昭和15年(1940)、新潮社の『日の出』に連載した「家庭の旗」が松竹で映画化され、原稿料300円を手にすると、郷里の母親を連れてお伊勢参りをした。 戦時中、荘八は従軍作家を志願して、中支、海南島、南支などを巡った。昭和20年(1945)4月23日、海軍報道部は大物の作家を報道班員に選び戦地を見てもらおうと、電話で海軍省へ呼び出された山岡荘八は、海軍報道班員として川端康成らと鹿屋に派遣された。期間は昭和20年4月24日から、荘八は鹿屋基地からの攻撃が終わる6月末まで2ヵ月、特攻攻撃の出撃を何回も見送った。 1ヶ月で切り上げた川端と違って、荘八は、積極的に隊員の間を歩き回って話を聞き交流した。出撃を見送ったあと、荘八は見送りの列を離れ声をあげて泣いたという。隊員から遺書や遺品を預かった。 敗戦後、荘八は自殺を考えたが、恩師の長谷川や母親から止められた。そして特攻隊員達の十三回忌に、自宅の庭の片隅に「空中観音」と名付けた観音堂を造り、預かった遺品などを納めた。 戦後3年ほどぼんやりして、荘八の代表作、『徳川家康』にとりかかる。昭和30年(1950)から昭和42年(1967)にかけて、17年間の歳月を費やして執筆し、長期連載のベストセラーとなった。第2回吉川英治文学賞を受賞。乱世を切り抜けて国を盛り立てた苦難の歩みは、経営者にも人気があり、ブームを呼んだ。が、「体制的作品」という声もあって、荘八は迷惑した。「菊ひたし われは百姓の 子なりけり」と荘八は自身を表現しているが、本来、大衆作家であった。 山岡荘八は72歳の生涯の中で、17年間の歳月を費やして執筆した代表作「徳川家康」をはじめ十数編に及ぶ有名な長編歴史小説を執筆た。なかでも、「春の坂道」「独眼竜政宗」「徳川家康」の三編は、NHK大河ドラマとなった。 ドラマ「独眼竜正宗」では、主役の伊達政宗を同郷の渡辺謙が演じている。 1978年10月30日、風邪をこじらせて死去、70歳。 🔶記念碑
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