正平18年貞治2年(1363)? 〔生〕- 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?〔没〕 日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 世阿弥は貞治2(1363)年、大和国の生まれ(貞治3年説も)。本名を元清という。当時、寺社の法会や祭礼に奉仕する「翁猿楽」の座が大和には4座あり、観阿弥(観世三郎清次)は結崎座の能役者であった。 父の観阿弥は大和猿楽が得意とした物真似芸に、田楽の優美な舞や、南北朝に流行した曲舞の音曲を取り入れた新演出が、当時の観客の心に強い感興をおよばし、その座は観阿弥の名を冠して呼ばれるまでになった。 観阿弥座は南北朝の動乱のあと、初めて近江の醍醐寺で7日間の猿楽を演じて名声を博し、近江の守護・佐々木道誉の保護を受けた。その縁で3代将軍・足利義満の知るところとなり、世阿弥は京都今熊野の猿楽興行で12歳で出演し、初めて義満の前で演じた。高名な連歌師の二条良基が、まだ垂れ髪の世阿弥に警嘆し、「藤若」の名を与えている。 将軍義満の寵愛を受け、舞台を独り占めするほどの栄達を極めた。世阿弥は、その信頼をより厚くするために、懸命に研鑽を重ねた。 当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。 彼は「能の演者は己れの後ろ姿まで見ることができる」と語っている。観客の眼差しをわが物とすれば、自分の肉眼の及ばない部分まで、見ることができるという。 「風姿花伝」「花鏡」など、数々の芸術論のほか、高砂・老松・敦盛・清経・実盛・井筒・檜垣・西行楼・忠度・班女・花筐・頼政・砧・芦刈・蟻通・融・野守・春栄などの、謡曲の作者としても知られ、物まね芸といわれた大和猿楽本来の姿から、歌舞中心の能へとその芸風を向上させ、能を芸能にまで高めた功績は大きい。 しかし世阿弥の幸運は義満の死とともに終わった。4代将軍足利義持は猿楽よりも田楽好みであったため、猿楽に対しては保護を与えなかった。 第6代将軍足利義教の代になると、世阿弥の甥である音阿弥が将軍家の保護を独占するようになった。世阿弥の不幸は、長男元雅の急死と音阿弥の観世太夫襲名によって頂点に達した。 世阿弥の音阿弥敵視は義教の激しい怒りを買い、弾圧が加えられ、仙洞御所への出入り禁止(1429)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430)など、世阿弥は地位と興行地盤を着実に奪われていった。 (佐渡流刑)世阿弥は将軍義教の怒りに触れて、永享6年(1434)5月4日、佐渡国に流刑に処され都を発った。当時世阿弥は72歳の高齢であった。若狭の小浜から船に乗り、沿岸沿いに北上し、国津松ケ崎の外港である大田(畑野町多田)の浦に上陸した。 その夜は松ヶ崎に泊まり、あくる日の朝、馬に乗せられて街道を登る。その頃の街道は今は廃道となって利用されていない。標高520m、峠の飯出山を越えていった。峠には地頭本間氏の観音堂があり、世阿弥一行はここで休憩をとり、山路を下り、波多郷にある京でも有名であった長谷寺に礼拝する。その後、波多郷にある守護代惣領家本間氏の居館(新保城)で代官に引き渡され、新保城の近くにあった、薬師十二坊の一つ万福寺を配所とした。 世阿弥は、万福寺在住の3ヶ月間に、順徳院配所跡(金井町泉)や京極為兼の遺跡(佐和田町八幡)を訪ねている。 永享6年(1434)の秋、本間氏の内紛で配所が合戦の場となった。世阿弥はかつて順徳院配所であった泉に移されることになった。泉は守護代雑太本間氏の庶子家川原田本間氏の領地である。雑太二家の争いはそこまでは及んでいなかった。 守護代惣領本間家は、長男系統の河原田本間家と羽茂本間家に分裂し、争う中次第に惣領本間家は名前のみの守護代となっていく。この戦いもその一つと思われる。 惣領本間家の居館が泉にあり、近くにあったゆかりの観音堂で世阿弥は暮らしたという。この堂が正法寺の前身であったという。この寺には世阿弥の使ったという能面が寺宝として伝えられ、境内に腰掛石が残っている。 永享7年(1435)の春を迎えた。守護代本間氏の社で、十社の神を祀る宮浦の一宮神社の祭礼で、猿楽能一曲を奉納したとされている。 後継者と定めた女婿・金春禅竹に宛てた書状、1435年(永享7)6月8日付の “佐渡状”が世阿弥の足跡を知る最後となる。 佐渡での生活は、食べるには事欠かないが、贅沢など望めない質素なものだったという。特に、島内では物不足で、書を著すための紙が手に入らないことを嘆いている。女婿にあてた手紙も粗末な楮紙に書かれたものであった。 世阿弥は佐渡島での一日、一日の思いを書にしたためた。1436年(永享8)に、世阿弥は佐渡配流の記録を『金島書』として世に残した。 その行方、没年も諸説あってはっきりとはわかっていない。そのまま客死したとも、金島書を書き終わってまもなく、あるいは足利義教が謀殺された嘉吉元年(1441)以後に帰京し、帰洛した後は、娘婿・金春禅竹のもとで死去したとも言われている。一説に嘉吉3年(1443)に81歳で没した、とされている。 能面『べしみ』※ストリートビューにかかわる伝承
伝承では、世阿弥が配流先の正法寺で作成したものとして伝えられている。新潟県指定有形文化財に指定されている。べしみとは、鬼が口を真一文字に力を込めてつぐみ、顎が大きく前に出た表情である。 世阿弥が正法寺に配流されたある年の夏、佐渡一円は大干ばつに襲われた。世阿弥は島民の苦しみを見るに見かね、佐渡の国守に雨乞いの舞の奉納を申し出ると、国守は喜んでこれを許した。 世阿弥は正法寺観音堂※ストリートビューに籠り、数日間一心不乱に能面を彫り続け、出来上がると、能面をつけ、境内で『法楽の舞』を舞った。 不思議なことに空は曇り始め、みるみるうちに黒雲が広がって、雨が降り出した。これを見て、呆然として立ち竦んでいた村人たちも、雨に打たれながら手を打ち乱舞して喜んだという。 この時から村人は、この能楽面を「雨乞いの面」と呼ぶようになった。そして干ばつの時は、この面を借り受け境内に持ちだし読経念仏すると、必ず雨が降り出したといわれている。 🌌世阿弥ゆかりの地🔹万福寺跡最初の配処世阿弥配処 万福寺趾
能楽の始祖世阿弥(観世元清)は永享六年六月(一四三四)、将軍足利義教の怒りにふれ佐渡配流となる。 佐渡の配流について世阿弥は その夜は雑太の郡、新保と云ところに着きぬ。国の守りの代官受け取りて万福寺と申小院に宿させたり。 この寺の有様、後には厳松むら立て、来ぬ秋誘ふ山風の、庭の木末に音づれて、陰は涼しき遣り水の、苔を伝いて岩垣の、露も雫も滑らかにて、まことに星霜古りける有様也。御本尊は薬師の霊仏にてわたらせ給よし(金島書より)と記している。 今役場庁舎のある場所が、「新保城」で代官の居城、碑の建つ場所が万福寺境内である。世阿弥は万福寺の配処で「泉」(金島書)などの曲をのこしたが、同年の暮方いくさのため配所を泉(金井町泉)に遷した。 佐渡市教育委員会 🔹正法寺1324年、和泉村城主・本間家の菩提寺として建立。世阿弥の配所としても知られ、お腰掛け石が残っている。6月には蝋燭の灯りによる「正法寺ろうそく能」がおこなわれる。また世阿弥が雨乞いの舞に使ったとされる、県内最古の面、『神事面』べしみや世阿弥像なども所蔵されていて、ろうそく能の際に公開される。世阿弥の最初の配所は万福寺だが、その後、戦がおこり、移された。 世阿弥が佐渡で書いた謡曲には「若州」、「海路」、「配処」、「時鳥」、「泉」、「十社」、「北山」があり、世阿弥十六部集のひとつ金島書で知られる謡曲創作ゆかりの地である。 ・正法寺ろうそく能
佐渡配流となった観世元清(世阿弥)を偲ぶ奉納能。世阿弥が逗留した「正法寺」の本堂を舞台に幻想的なろうそくの明かりの中で能が舞われます。 〔開催日〕 2019年6月15日 〔時間〕 18:30~ 🔹紅葉山公園1436年(永享8)に書かれた世阿弥の金島書の中にで、その美しさは都にまで名を馳せていたことが伝えられています。紅葉山
紅葉山を世阿弥が「金島書」の中で「ここは、みやこにてもききし名どころなれば、山はいかでか紅葉しぬらんと 夏山かへでのわくらばまでも、心あるさまにおもひそめてき。」と詠まれております。 春は万作、タムシバ、山桜、夏は谷空木 レンゲツツジ、山法師、秋は紅葉、ナナカマド、漆、ソヨゴ、カマズミ、マユミ、楢、栗、黒文字、紫式部、欅等の樹種が豊富 |
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