地区総鎮守の堀出神社の祭礼で400年の歴史がある。松阪踊りの市内流しや、宮参りの大屋台が、各町内を練り歩き、約160店の夜店の出店もあり、数万人といわれる人手でにぎわう。 初日16日の民謡流しは、本町目抜き通りにおいて、約1,600人に及ぶ踊り子により新津松坂流しが繰り広げられる。 19日・20日は、各町内会が誇る7台の屋台や、重厚なたるみこしが市内中心部を練り歩きます。 屋台まつりの起源は、戦国時代、新津城主新津勝資が地域発展を祈り、文化的行事として京都祇園風の祭り屋台とお囃子を作ったことを起源としたお祭りです。特に明治以降、石油の噴出と地域の繁栄と共に変化して現在に至っています。かつては、屋台同士を本当にぶつけ合う、激しいものであったといいます。現在ではぶつかり合うことはありませんが、その名残が見られます。
≪新津松坂の由来≫
天正・文禄のころ(1573~1595)上杉二十五将の一人と讃えられた新津丹波守勝資は、武将でありながらも、風流をよく解し、戦国時代の殺伐な領民たちの心をやわらげようと努力した。そのため歌舞を奨励し、伊勢国松坂に優雅な踊りがあることを知り、数人の男女を伊勢に送った。その唄と踊りを習得させ、これに手を加えて改良させ「新津松坂」と名付けて領民に踊らせたという。 唄は上方色の濃い、優雅な気品をそなえた美しいものである。新潟県内でも一番古い民謡と言われる。 ≪新津丹波守勝資≫ ?〔生〕~1600年(慶長5)〔没〕 新津氏は、金津氏の支流で、清和源氏平賀氏流の名門である。新津勝邦の婿養子で実父は三条城主山吉政久(山吉豊守の父)。 謙信時代の第四次川中島の戦いや、上杉景勝の時代には新発田重家の乱、小田原征伐、文禄・慶長の役など、ほぼ全ての戦に参戦している。その戦いぶりから上杉二十五将の一人に選ばれている。 その居城(新津城)は、秋葉区山谷の自動車学校周辺にあったが、現在は標柱が建つのみで遺構はない。 上杉景勝の会津移封にともなって、勝資もこれに従い新津城は廃城となった。その後勝資は会津で没する。戦いに明け暮れた生涯であった。 新津氏の子孫は代々米沢上杉家に仕え、戊辰戦争では、当時の当主が長岡城の戦いで戦死している。その際、新津城のあった地を訪ねたと伝えられる。 新津総鎮護 堀出神社約800年前、新津市の先祖を遡ると源義家の弟源頼光(新羅三郎)の子平賀盛義が信濃国より越後に入り蒲原郡の平賀城(護摩堂山城)を築城して平賀氏と称した。その孫が金津蔵人資義であり最初に金津城を築城した。金津城を築城、濠を掘っている時、男女の二つの黄金の御神像が掘り出され、この跡から黒い水(石油)がこんこんと湧き出たと伝えられる。 山の中腹に祠を建てて、伊邪那岐神、伊邪那美神として祀り、堀出大神と称したのが神社の始まり。 金津蔵人資義には3人の子供があり、長男の死亡で次男木津左衛門尉資直が分家したが金津城の後を継ぎ、金津蔵人左衛門尉資直と称し金津保の地頭職となった。三男、信資は嘉禄2年(1226)頃、山谷に分家して新津氏の始祖となり、新津城に拠って、新津越前守三郎信資を称した。 本家の金津氏が何かの都合で金津を去るとき、その所領と堀出神社の御神体を新津氏が受継ぎ新津城内に守護神として祀った。後世金津に鎮座された堀出神社はこの御分霊が祀られたものである。 その後第15代新津城主丹波守勝資公が440年前天正元年(1573)に新津城外の現在地に社殿を建立、奉遷して、領内の総守護神とした。 慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると、新津勝資もそれに従って移り、ご神体も会津に移した。 25代新津続忠が明治15年(1882)に勝資が会津・米沢に持って行った御神体を堀出神社に返却している。 境内にある大きなザクロの木は大庄屋の桂家から平成28年(2016)4月に境内に移植されたもの。このザクロは良寛にゆかりがあり、今も秋にはたわわに実をつけている。 6代当主の桂誉正と妻とき子は、文政13(1830)年9月に、邸内に実った良寛の好みであるザクロを7つ贈った。1か月後、病床にあった良寛の元に届いた時には、ザクロはすでに腐っていたが、良寛は厚意に対して感謝の思いを和歌に表し残されている。 「くれなゐの ななのたからを もろてもて おしいただきぬ ひとのたまもの」 この歌の碑は、秋葉公園の日本庭園に立っている。 今も昔も、この縁起の良い社名にあやかり、幸運を掘りだそうという多くの参拝者で賑わっている。 伝統を誇る新津夏祭りは、堀出神社の例大祭の8月19日、20日。神楽、万灯みこしやたるみこしと共に各町自慢の祭屋台7基が繰出す勇壮な祭りである。
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