平沢清水 Hirasawa Shimizu 新潟市
竹野町弘法清水から1kmほど離れた、北国街道沿いの湧水。かつては湧出量が豊富で、この清水は街道筋にある集落の美女「布目おまん」と共に、関東まで評判がひろがっていたという。 水場の周りには立派な石碑も建っているが、現在は、湧出量が著しく減少し、組むことは難しい。 平沢集落は、岩室や弥彦へ通じる北国街道沿いの集落で、「茶屋」や「女郎屋」があったといわれる。 ※ストリートビュー 布目おまん布目おまんは江戸時代末に、布目(新潟市西蒲区布目 上堰潟南側)に生まれ、「茶屋」や「女郎屋」で働いていたといわれる。髪長く六尺屏風の前に立っても余って畳に引きずったと伝えられている。美人で額の生え際から細毛や後れ毛(おくれげ)が一本もなく、『布目おまんと平沢清水、音に聞こえし関東までも』の歌とともに江戸にまで伝わった。現在墓地も残されている。
≪現地案内看板≫
平沢清水の由来 平等の利益に もれぬ しるしおば 汲む人ぞしる 平沢の水 いつ頃、誰が、詠んだのであろうか、 この清水は、いつ頃から湧き出ていたのか、この度 景観を整えるに当って、石器時代のものと思われる石おのの様なものが出て来たところから縄文時代頃には、人間が、この清水を使っていたものと思われる。 依頼、歴史に記されている中で、平の景清が、源氏に敗れて九州宮崎に落ちのび、部下の高梨の景門に命じ 自らの守り本尊である千手観音を 生れ故郷の羽後平沢(秋田県)の地にまつる様たのんだ。 景門は、北国街道を東に向かったが この地に着いた時 愛馬が倒れ 聞けば 何かのゆかりやら この地も同じ平沢と聞くと 愛馬をほうむって そこに一本の欅の木を植えて 一庵を建て 護り本尊をまつったといわれる。 その欅は、現在、目通りの大きさは、大人、七人位で抱えなければならない大木となっている。 以来、芭蕉・良寛等 文人・墨客の多くが、通りかかり この清水で のどをうるおし しばし旅のつかれをいやした事であろうと、昔を忍ぶ。 西蒲原郡誌に依る一節に、平沢清水は 昔、北国街道沿へで 西の方山麓にありて、水質佳良にして 旱天にも湧出量減ずることなく 霖雨にも亦増さずという けだし郡下一等の清水なるべくし、下流を御手荒川と呼び、峰岡の東北より上木島を経て下木島に至り 途中、近郷近在の水田をうるおし、矢川に入ると記されている。 平成二年四月吉日 大字平沢
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